醍醐寺から、醍醐天皇山科陵を経て随心院に向ったので、旧奈良街道と新奈良街道の間を行きつ戻りつしながら、やっとたどり着いたという感じである。

醍醐寺から旧奈良街道を真っ直ぐにくれば、こんなことにはならなかったであろうに。

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醍醐寺から隋心院に向うと、山門ではなくこの入口から入ることになる。

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曼荼羅寺・隋心院門跡・小野御殿などと呼ばれる。

寛仁2年(1018)に創建されるが、応仁の兵火で堂宇の多くが焼失してしまい、現在の本堂は慶長4年(1599)の再建で、書院は徳川秀忠夫人の寄進になると言われる。

また小野小町の邸宅跡と伝えられており、小町の化粧井戸や文塚が残っている。

深草少将が小野小町のもとに通った、深草から東山をこえて小野に出る道は、現在では多分、師団街道を北に、府道35号を東に、名神高速に沿って歩くと一本道で随心院にたどり着く。

そんなに遠くはなく約1時間強の道のりである。

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随心院の駒札によれば、

『真言宗善通寺派の大本山で、弘法大師の八代目の弟子に当たる仁海(にんかい)僧正が正暦2年(991)に創建した。

もとの名は牛皮山曼荼羅(ぎゅうひざんまんだら)寺といい、その名は、ある夜、亡き母が牛に生まれ変わっている夢を見た仁海僧正が、

その牛を探し求めて世話を尽くしたものの、間もなく死んだため、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を描いて本尊としたことに由来する。

その後、第五世増俊(そうしゅん)が曼荼羅寺の塔頭として随心院を建立し、第七世親巌の時、後堀河天皇より門跡(もんぜき)の宣旨を受け、門跡寺院となった。

この辺り小野は小野一族が栄えた場所であることから、絶世の美女として名高い小野小町ゆかりの寺としても知られ、境内には小町に寄せられた多くの恋文を埋めたという文塚や、化粧の井戸などが残されている。

梅の美しい寺としても有名で、三月の最終日曜日には、小野小町に恋した深草少将の百夜通い(ももよかよい)の悲恋伝説をテーマにした「はねず踊り」(はねずとは梅花の薄紅色のこと)が披露される。』

                      出典:【随心院の駒札】より

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随心院は梅で知られているのだが、桜も境内の所々で咲いていたのだが、その殆どが満開を過ぎて、花が散り始めて葉桜にちかい木々であった。