旧奈良街道が醍醐に近付くにつれて、人を多く見かけるようになった。そして桜がまだ春の名残を惜しむかのように咲いている。 |
![]() | |
この季節、醍醐寺は花見の人で大変な賑わいをみせる。また秋には紅葉も素晴らしいのだが、醍醐といえば桜というほどに、なんと言っても春のほうが人出は多いのである。 |
![]() | |
醍醐寺は今から千年ほど前の、貞観16年(874)に理源大師聖宝の開基になるものである。 |
三宝院や金堂が建つ山下を下醍醐、女人堂から50分ほど登った山上を上醍醐といい、醍醐寺はこの山の総称で、醍醐寺という寺は存在せず、三宝院・理性院・金剛王院・無量寿院・報恩院などの寺院で成り立っている。 |
![]() | |
山上山下に寺坊は二百余もあったといい、大いに栄えたのであるが、応仁の乱(文明2年:1470)にて、下醍醐の堂塔伽藍ことごとく焼失する。 |
上醍醐の堂宇も荒れ果てたが、豊臣秀吉の帰依により、復興を遂げるのである。 |
慶長3年3月15日に秀吉が一族郎党・諸大名1,300人を従え催した花見の宴は、「醍醐の花見」として今に語り継がれている。 |
女人堂をすぎ500mほど登った千畳敷という所が、花見の宴を張った跡だという。 |
![]() | |
醍醐寺の駒札によると、 |
『真言宗醍醐派の総本山で、平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。 |
山上の上醍醐と山下の下醍醐から成る壮大な寺で、天暦(てんりゃく)5年(951)に完成した京都府域最古の五重塔(国宝)をはじめ、四万点にも上る多くの国宝や重要文化財を有している。 |
平安初期の貞観(じょうがん)16年(874)に理源大師聖宝(しょうぼう)が、笠取山(上醍醐)に登って観音像を彫刻し、安置したのが当寺の始まりとされており、延喜7年(907)に醍醐天皇の勅願寺となり、次第に大伽藍が整えられた。 |
応仁の乱や文明の乱により、五重塔を残してすべて焼失したが、慶長3年(1598)に豊臣秀吉が北政所らを醍醐の花見に誘ったことをきっかけに、秀吉の厚い帰依を受けて復興された。 |
本堂の金堂(国宝)は、慶長4年(1599)に紀州(現在の和歌山県)湯浅の満願寺から移築したものといわれ、三宝院(さんぽういん)庭園(特別史跡及び特別名勝)は、 |
華麗で豪華な桃山時代の庭園で、秀吉の権勢をしのばせている。霊宝館には、薬師如来坐像(国宝)や秀吉所用の黄金天目茶碗などが収蔵されており、毎年春と秋に公開されている。 |
毎年4月第2日曜日には、千三百人を従えて盛大に行われたとされる当時の花見に倣って「豊太閤(ほうたいこう)花見行列」が行われ、多くの人でにぎわう。』 |
参照:【醍醐寺の駒札】より |
コメント