本願寺が勢力を二分して後継者を争ったことに乗じて、徳川家康がその勢力を割くために、

本願寺(西本願寺)の東側に、慶長7年(1602)に教如上人を門主として、もう一つの本願寺を寄進したのである。

これにより、二つの本願寺が出来ることになり、本願寺の東に建ったことから「東本願寺」と呼ばれ、真宗大谷派の本山となるのである。

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西本願寺のある」堀川通から、ぐるりと回って烏丸通にある「御影門」まで来ると、やっと東本願寺の境内に入ることが出来る。

東福寺の山門と知恩院との山門と共に、京都の三大門と呼ばれているのである。

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御影堂門は、単層入母屋造の建物で、間口76m・奥行が58mと木造建築では世界に類を見ないものである。

たびたびの火災で創建当時の建物は残っていないのだが、現在の堂宇は、明治28年(1895)の再建になるものである。

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東本願寺も御影堂門を入った景観しか見たことがなかったので、今回は雨の中、菊の御門がある辺りまで歩いてみた。

そこにあったのは「大寝殿」であった。こんな建物があったのに少し戸惑いを感じたのである。

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その先に「大玄関」があった。ここから先なかには寺院の人のみが入れる所となり、一般の人は立ち入ることは出来ない。

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雨のせいでもあろうか、東本願寺の境内には人もまばらであった。

親鸞聖人を開祖とする東と西の本願寺がこんな近い距離で並び立ち、今日まできたということは、徳川の太平が長く続いたためであろう。

戦国時代であれば、東と西はどちらかに統一・統合されて、一つの本願寺が出来ていたかもしれないと思えば、歴史の不思議は面白いものである。