琵琶湖疏水に掛かる「安殊橋」から毘沙門堂まで後三丁(327m)の石碑を見て、さらに北に歩くと途中に、忠臣蔵ゆかりの寺院「瑞光院」がある。

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山科区安朱堂ノ後町にあり、門前の駒札によると、

『紫雲山と号し、臨済宗大徳寺派に属する。赤穂義士の遺髪が埋葬されている、「忠臣蔵」ゆかりの寺院である。

慶長18年(1613)因幡(いなば)国(現在の鳥取県)若桜(わかさ)城主山崎家盛が大徳寺の琢甫和尚を開山に請じて一寺を建立したが、家盛の没後、その法号にちなんで瑞光院と称したのが当寺の起りである。

もと上京区の堀川鞍馬口にあったが、昭和37年(1962)11月にこの地に移った。

元禄初期には、当院第三世陽甫和尚が播州(現在の兵庫県)赤穂城主・浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)夫人瑤泉院(ようぜんいん)と族縁に当ることから、浅野家の祈願寺となった。

元禄14年(1701)長矩が江戸城中で吉良上野介(きらこうずけのすけ)に忍傷に及んで切腹した年、当院内に供養塔が建てられ、

また元禄16年(1703)上野介を討った大石良雄らが切腹した際、その遺髪が寺内に葬られた。

境内には長矩の墓や、良雄ら四十六義士の遺髪塔のほか、良雄が生前愛したという梅の古木がある。

12月14日の義士討入りの日には、義士ゆかりの寺として参詣する人が多い。』

                       出典:【瑞光院の駒札】より

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赤穂義士といえば四十七士なのだが、瑞光院の遺髪塔には四十六の遺髪しかない。

これは討入りに加わったなかで、唯一士分ではなく足軽であった、寺坂吉右衛門が討入り後にその姿をくらましたからである。

俗説によれば、「討入り前にすでに居なかった」また「大石の命を受けて一行から離れた」そして「その身分が足軽ゆえに、大石が公儀に憚って逃がした」という様々な説があるのだが、

映画などでは、大石の密名で事の次第を浅野家ゆかりの人々に伝える為にその場を離れ、役目を終えると四十六士の菩提を弔って、その生涯を終えたと描かれているのだが、

いずれにしても今となっては、その真相は知る由もないのである。