白蓮寺から北東に歩いて行くと、柳山(諸羽山)に抱かれた「諸羽神社」がある。

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諸羽神社は、柳山(諸羽山)を後ろにして建ち、貞観4年(862)の創建という。

諸羽の名は、当初、二神を祀ることから両羽大明神と称したが、文亀4年(1504)に諸々の神を祭ったことから、諸羽神社と呼ばれるようになったと云う。

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諸羽神社の駒札によると、

『天孫降臨の神話の中で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の左右に従った天児屋根命(あめのこやねのみこと)と天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祀るところから、

兩羽(もろは)大明神と称したという。貞観四年(862)、清和天皇の勅命でこの地に社殿を建てたのが当社の始まりとされる。

この後、正殿に応神天皇、脇殿に伊奘諾尊(いざなぎのみこと)・素戔鳴尊(すさのおのみこと)・若宮八幡を合わせ祀るようになり、社名の「兩羽」の文字も「諸羽」に改められた。社殿は応仁の兵火により焼け、その後もしばしば火災に遭った。

当社は、山科一八郷の中で第四番目に当たるとされ、古くは「四ノ宮」と呼ばれて、この付近の産土神として人々に崇敬された。

神社の背後の山は諸羽山といい、平家物語の中に、「木曽、もろは山の前、四の宮川原に打出で・・・」と記されているのは、当社周辺のことである。』

                         出典:【諸羽神社の駒札】より

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本殿の西北隅に、注連縄が結ばれた石があるが、これは「琵琶石」と呼ばれ、藤原常行が人康親王のもとを訪ね、もてなしを受けた返礼に、紀伊国・千里が浜の石を献上したものだといい、後に藤原業平がこの岩について、

「あかねども 岩にぞかふる 色見えぬ 心を見せむ よしのなければ」(岩にかえて送る自分の志は、色となって(目に見えて)現れない、自分の真心なのです)と詠んだという。

人康親王が琵琶を好んだことから、この石を「琵琶石」と呼ぶようになったと云う。

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また、境内にある「神社略記」によれば、

『祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)・天太玉命(あめふとたまのみこと)で、この二柱の神が山階(やましな)郷柳山に降臨坐されたのだが、この二柱の神は天孫降臨の時に左右を補佐した神であるところから、両羽大明神と称された。

五十六代清和天皇の貞観四年に禁裏御所により社殿が御造され、両羽大明神と       唱へ給ひ、山の名も両羽山と称するに至る。

中古の後柏原天皇の永正年間より中央に八幡宮、左に伊奘諾命を、右に素盞鳴命及び若宮八幡宮を配し以上六柱を合祀したことで、両羽の文字を諸羽と改称する。

往古の社殿は応仁の兵火により、又その後御再建の社殿も江戸時代中期明和年間の大火により焼失した。明和五年氏子中より募財して、三度目の造営がなされ、今日に至る。

明治に至り山科十八郷中、四宮、安朱、竹鼻の産土神として親しまれて」いる。山城志大帖夫木集に曰く

豆良志土手 諸羽乃山仁加久留共 我山彦耳成天答武(つらしとて もろはのやまにかくるとも われやまびこになりてこたへむ)』

                         出典:【諸羽神社略記】より