白峯神社を右にみて今出川通に出、小川通を南に、小川小学校に沿って西の道を、武者小路通の角を左に折れると、千宗旦の次男、一翁宗守を始祖とする、武者小路千家の「官休庵」がある。 |
武者小路千家は、千利休の本流となる「表千家」に対し、「裏千家」と共に、分家となるのだが、茶道の世界ではこの三つの流派を三千家と呼ぶ。 |
「官休庵」は一翁宗守が、高松藩の茶堂を辞した、寛文7年(1677)に建立したといい、仕官を休むという意味から「官休庵」と名付けられたという。 |
千宗守居士遺跡の石碑が建つが、門前の駒札によると、『官休庵は三千家の一つ、武者小路千家の祖、一翁宗守が寛文7年(1667)に讃岐(香川県)高松藩松平家の茶堂を辞し、官を退いたときに建てたと伝えられる茶室である。創立後三度の火災に遭ったが、そのつど再建され、明治14年(1881)にほぼ現在見られる姿となった。 |
敷地内には官休庵の他に半宝庵、環翠園、祖堂、弘道庵などの茶座敷があり、様々な方法で利用されている。 |
露地は飛石や蹲踞(つくばい)を巧みに配置し、各茶座敷をつなぐとともに、茶座敷からの鑑賞にも対応する造りとなっている。 |
また内露地と外露地を結ぶ「編笠門」と、この門の雨落の仕切に並べてある池田炭は、斬新なアイデアで、本庭園の中でも特に著名なものである。 |
本庭園は、創設以来の伝統的な手法と、斬新なデザインを合わせ持つ点で貴重なものである。』 |
出典:【京都指定名勝 官休庵庭園の駒札】より |
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