小川通から油小路をさらに南に歩くと今出川通に出るのだが、もう少しで今出川通というところ、白峯神社の東側に「本阿弥光悦京屋敷跡」の石碑が建つ。

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この辺りは、本阿弥の辻子と呼ばれ、本阿弥家があった所である。油小路をはさんで西側に本宅、東側に分家の光悦の旧宅があった。

光悦は徳川家康の命により、元和元年(1615)58歳で一族郎党と共に、鷹ヶ峰の地に移るまでの間、ここで過ごしたのである。

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駒札によれば、

『この地は足利時代初期より、刀剣の研ぎ・拭い・目利きのいわゆる三事を以て、世に重きをなした本阿弥家代々の屋敷跡として、「本阿弥辻子」の名を今に残している。

その本阿弥家歴代の中にあって、日本の芸術史上に著しい光彩を放っている光悦は、永禄元年(1558)実に此の処に呱々の声をあげたのである。

光悦はその家業三事において、達人の名をほしいままにしたが、彼の天成の高雅な芸術的人間性は、特に書道に、かつ茶道に、気韻あふるる富麗清逸の美的境地を開き、天下の数奇者の敬仰を集めた。

光悦は元和元年58歳、徳川家康から洛北鷹峰に地を与えられ、寛永14年(1637)その80歳の生涯を終ふるまでの晩年を、鷹峰に風流の生を送ったが、

彼の壮んなりし58年の前半生は、ほかならぬ此の地にあって、家業に慈しむと共に、芸に遊び風月を楽しむ日常を過したのであった。』

                    出典:【本阿弥光悦京屋敷跡の駒札】より