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・・・なんと、この曲り角で、道を間違ってしまうのである。真っ直ぐに行けばよかったものを、

ここで右に道をとり、あろうことか一乗寺から雲母坂へと向かう道に出てしまったのである。

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しかし、そこで見たものは「きららつけ」なる提灯が掛かった接待所であった。その玄関に掛かる駒札によると、

『平安京鎮護の霊峰、叡山に修行された多くの名僧、貴人、風雅の士が、雲母坂と称する難所のほとりに、

その昔、鷲尾大納言家に仕えた田辺家がいとなむ茶処に、草鞋の紐をゆるめ、疲れを癒しつつ、点心にこの風味ゆたかな雲母漬を賞味されたのである。

のち次第に広まり、世人の愛好を得るにいたり、その名声を今日に保ちつつ来ている。』

                      出典:【きらら漬の由来の駒札】より

ここは、きらら漬という、親指ほでの小さな茄子を白味噌で漬けたもので、ここが、それを売る「穂野出」という店であることを、後で知ったのである。

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穂野出は、元禄2年に創業したという老舗で、きらら漬は、ここでしか売られてなく、多くの人が、ここに足をを運び、きらら漬を買っていく。

ここは、鷲尾家に仕えた田辺家の跡であり、その駒札によると、

『田辺家は江戸時代の元禄年間より「雑掌」として鷲尾家に仕えてきた。江戸時代、「雑掌」とは公家に仕える事務職員のような役割を果たしていた。

室町時代の永正年間に「二水記」を著した公家の鷲尾隆康の後裔、鷲尾家は一乗寺村に家領を有し、田辺家にその管理をさせていたほか、納米の用務や、時には家臣として宮中出仕もさせていたといわれる。

江戸時代になって、一乗寺村は諸寺の寺領や公家の家領であったばかりでなく、比叡山への道筋である雲母坂(きららざか)にあったところから、

田辺家が番所を兼ねることもあった。幕末の洛中の騒乱、戦火を避けて、鷲尾家に伝わる諸々の古文書等がここに保管され、今日に至っている。

後醍醐天皇などの宸翰(しんかん)七巻をはじめ、沢庵禅師之偈(げ)之書、後水尾天皇修学院離宮御幸御道筋(ごこうおんみちすじ)絵図一巻、一休和尚之書等、多数の文化財、美術品を保有する。

中でも寛永11年(1634)江戸幕府三代将軍 徳川家光上洛の際、京都中に銀五千貫を下付した時の町民代表者の署名捺印の請取覚は貴重な史料で、この覚書により当時、京中の家紋が三万七千三百十三戸あったことがわかる。』

                      出典:【鷲尾家雑掌宅跡 (田辺家)の駒札】より

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また庭の一角には、下賜の庭石なるものがあり、

『明治3年、還都に際し、主家鷲尾大納言の住居、今出川ご門の西側より東京へ移住のみぎり、当、田辺祖先より願い出で庭園の一隅より、荷駄人夫など集め、当時として大がかりな労力を以て、現在地へ搬送されたものであります。

この庭石(巨石)は産地など定かではありませんが、石肌のきめ細かな材質の故か、現在にいたるも亀裂をみづ、苔の発生も極めて少なく、代々田辺家の家宝の一つとして、今日に至って居ります。』と書かれている。

                      出典:【還都・下賜の庭石の駒札】より