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鷺森神社から再び曼殊院の参道に戻り、案内板の立つ三叉路を右に曲がる。ここから詩仙堂までは、歩いて10分ほどである。 |
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詩仙堂への途中の道から一気に展望が開けると、修学院の町並みを一望することが出来、 |
この辺りが比叡の山裾であることを実感することが出来るのである。その山裾をさらに南へ・・・ |
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『葉山馬頭観世音』とある石碑が建ち、この狭い道を山側に少し歩くと、通称「葉山観音」と呼ばれる「一燈寺」がある。 |
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一燈寺の本尊「馬頭観音」は聖徳太子の発願になるものと言われ、代々この地の主であった端山光寿の子孫が守ってきたという。 |
江戸時代の寛永年間に、後水尾上皇の第8皇女である朱宮光子(あけのみやてるこ)内親王により、観音堂が建てられたのが始まりというが、光子内親王が出家し、その住まいを「林丘寺」とし門跡寺院に改めた。 |
その後、二代、三代と代替わりをし観音堂は衰退し、今は観音堂と十三重塔などを残すのみとなっている。 |
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また、この葉山観音には、幕末の儒学者で勤皇の志士であった梅田雲浜が、暫らくの間住んでいたことがある。 |
梅田雲浜は、若狭小浜藩の藩士で儒学者であったのだが、藩主・酒井忠義とそりが合わず藩を追われると、黒船の来航と共に尊王攘夷の先鋒となり、海防について幕政を批判した。 |
しかし安政の大獄で、二人目の逮捕者となり、京から江戸に送られ伝馬町の牢獄にて、拷問による傷がもとで獄死をする。 |
藩を追われ少しの間、この葉山観音にて住まいをしているのである。 |
時世の歌として、『君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり』と詠んでいる。 |
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