京の町には紫式部にゆかりのある地があちこちに存在する。この引接寺にもそれはある。



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クリックで大きくなります 本堂の横、少し奥まった所に、十重の石塔が建っているのだが、この石塔が正徳3年(614)に円阿上人の勧進によって建てられたという、紫式部の供養塔と言われるものである。

その説明板によると、

『一重目は、円形の基礎石の表面に十四体の地蔵小像をきざみ、その上の軸部に、

薬師如来(東面)、弥勒菩薩(南面)、定印阿弥陀如来(西面)、釈迦如来(北面)の四佛座像をあらわし、

像の横に、至徳3年(1386)8月22日に、僧円阿の勧進によって建立された旨の銘がある。

二重目は、四隅に柱を立て、その中に鳥居を刻んだ円柱の軸部を置いている。

その上には、九個の笠石を置いて、十重の塔としている。

これは、二重の宝塔と十三重塔の残欠の二つを組み合わせた珍しい偶数の塔で、古来より、紫式部の供養塔と伝えられている。』

                       出典:【紫式部供養石塔の説明板】より



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その紫式部の供養塔を囲むように立っているのが「普賢象桜」、遅咲きの桜で、4月の半ばから末にかけて白い花を咲かせ、

花弁の中から双葉の出るさまが、普賢菩薩の乗る白い象に似ていることから、この名が付いたといわれ、

古来この桜は二種類あったといい、嵯峨小倉山の「二尊院ふげん」と、この「ゑんま堂ふげん」である。

桜といえば普通は一重の花なのだが、ふげん桜は多重であり、椿のように房ごとに落下し、普通の桜のように風に舞って花びらを散らすという風情はない。

室町時代には、公家や公達などがこの桜を愛で、後小松天皇がこの桜を見て感激をし、時の将軍・足利義満にも進め、これを見物させたという。

義満もまたこれを愛で、桜の盛りを期して狂言をとり行えと命じ、それが「千本ゑんま堂大念仏狂言」として今に伝わっている。

                         参照:【名勝 普賢象桜の説明板】より