文子天満宮旧蹟から、天神筋道を北に少し行ったところにあるのが「西之京ずいき神輿」の看板が掛かる集会所がある。



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この辺りは、北野天満宮の神人が多く住んでいた所であり、北の天満宮もその御旅所も近くにあり、10月のずいき祭の際には、この辺りを「ずいき神輿」が練り歩くのである。

北野天満宮の「ずいき祭」は、

『北野天満宮ずいき祭りは、数ある京都の秋祭りの先陣を切って10月1日から5日間にわたって行われます。

「ずいき祭」の名称は、祭礼期間中御旅所に奉安される「ずいき御輿」に由来しますが、その歴史は古く、このずいき御輿を中心とした、西ノ京を始めとする氏子の祭りは、室町時代には行われていました。

この祭りに、明治時代になって神幸祭(神様が氏子区域を巡行する祭)が取り入れられ、現在の形が整いました。

ずいき祭では4日間にいくつかの祭典が行われますが、中でも10月4日の還幸祭は、単に「巡行を終えた天神様が本社に御帰りになる」というだけでなく、

「おいでまつり」の別名が示すように、「大宰府で御隠れになった菅原道真公の御霊が神様として初めて北野の地においでになる」という御鎮座の由来を回顧し、再現するという意味があります。

かつては還幸祭の行われる4日には親類縁者を招いて御馳走を作り、晴れ着を着て行列に供奉したり沿道から神輿を拝んだりしたといいます。

年に一度、御鎮座の往来に思いを致し御神霊を「お迎えする」ことで氏神としての天神様を改めて意識し感謝する心が育まれる。』

                         出典:【北野天満宮 ずいき祭 御由緒】より



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北野天満宮のずいき祭で西之京辺り一帯に、ずいき神輿が巡行される。

神輿の始まりは平安時代といい、五穀豊穣を祈り、野菜や穀物・果実などを飾り付け、菅原道真公の神前に奉納したのが、ずいき神輿の始まりとされる。

その後、室町時代・応仁の乱による祭りの中断があったが、慶長11年(1607)に豊臣秀頼が北野天満宮を再建すると、西之京の神人が神輿に里芋の茎(ズイキ)を屋根に葺いて、西之京一帯を練り歩いたのである。

江戸時代を過ぎ、明治・大正・昭和と「ずいき神輿」は巡行され、太平洋戦争で中断されるも、西之京の人達の尽力によって、10月4日に西之京の町一帯を「ずいき神輿」が練り歩くのである。

今年も、もうすぐ、その季節がこようとしているのである。