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紙屋川に沿って北に、下立売通に架かる「新下立売橋」を左に見て、すぐにあるのが『竹林寺』である。



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その橋から、下立売通を東に入ると、五台山竹林寺という寺がある。門前の扉は閉じられているのだが、山門の横には、こんな張り紙があった。

当寺の由緒とあり、その最後に「どうぞ遠慮なく、ご自由にお参りください」と住職の言葉が書き加えられていた。

京都では珍しく、山門が閉まっていると、拝観不可という寺社が多いのだが、この一文でくぐり戸を開けて境内に入ることが出来、中に入らせて頂いた。



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クリックで大きくなります くぐり戸を入り右側にあるのが「平野國臣外三十餘士之墓」である。元治元年(1864)の7月19日、蛤御門の変による兵火が六角獄舎に迫ると、ここに収監されていた勤皇の志士37名が、その混乱に乗じて斬殺され、その遺骸は京都西刑場に埋葬されるのだが、明治になりこの竹林寺に移され、明治43年(1910)にこの石碑が建てられて、毎年祥月命日には追善供養がなされている。

駒札によると、

『平野國臣は、元福岡半紙で京都において同士と共に尊王攘夷運動に奔走したが捕えられ、


元治元年(1864)7月19日、蛤御門の変(禁門の変)の時、戦火に乗じて逃走を恐れ六角獄舎で、

生野挙兵の同志、天誅組の水郡(にごり)善之祐以下16名、池田屋事件の古高俊太郎以下8名ら勤王志士とともに未決のまま斬首された。

「憂国十年、東走西馳、成否在天、魂魄帰地」と辞世の詞をよみ37歳の生涯をおえた。

明治10年(1877)西の京刑場(西大路太子道一帯)あとから姓名を朱書した瓦片と多数の白骨が発見され調査の結果、

これらは六角獄舎で斬首された国臣ら勤王志士三十七名の遺骨であることがわかり、あらためて当寺に移葬された。』

               出典:【竹林寺 平野国臣以下三十七士の墓の駒札】より


平野国臣は尊王攘夷の志士であり、福岡藩を脱藩する。

薩摩の西郷や長州の真木和泉などとも親交を深めたが、島津の寺田屋事件で捕らえられるも出獄し、

その後天誅組の挙兵に呼応して、但馬国生野で倒幕の兵を起こすも、時至らず囚われの身となり、はからずも長州が起こした禁門の変に乗じて、幕吏によってその命を終えるのである。