観音寺かr普賢寺川に沿って三山木駅に向うと、川越しに見える府道生駒井手線の多々羅バス停付近に、高さ1.5mほどの石碑が建っている。



 クリックで大きくなります
この付近は多々羅と呼ばれているのだが、多々羅の語源は「足踏みにより風を送る鞴(ふいご)のこと」であり、

その昔の製鉄の方法が、砂鉄を原料にし木炭を大量に加えて、ふいごで風を送り温度をあげて酸素を除き、粗鉄とする工法である。

それは主に百済などの渡来人が大陸からもたらした技術だったのである。



 クリックで大きくなります
その一方、ここに建つのが「日本最初外国蚕飼育旧跡」の石碑。この養蚕の技術もまた、百済からの帰化人によってもたらされた技術であり、多々羅の地では、養蚕と絹の生産が営まれていたという。

古事記のなかに、仁徳天皇の皇后・磐之媛(いわのひめ)が、仁徳天皇に愛想尽かしをし、

「一度は這う虫になり、一度は殻になり、一度は飛ぶ鳥になって」と、その姿を三度変えるという珍しい虫(蚕のこと)を見ることを口実に、

多々羅の奴理能美(ぬりのみ)の館を訪ね、仁徳天皇の再三の帰京要請にも応じず、3年後にこの地で亡くなったという。

このような内容から、大陸から蚕が持ち込まれ、日本で初めて飼われたたのが、この多々羅の地だったのである。そのことを記すのが、この「日本最初外国蚕飼育旧跡」の石碑である。