この普賢寺には「息長山観音寺」という、真言宗智山派知積院末寺の寺院がある。ここには国宝の十一面観音像が安置されている。



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下司古墳が造られた頃に、古墳から南西に500mの所(同志社の東門を出て、普賢寺川に沿って500mほど歩いた所)に「筒城寺」が建立されたといわれ、

それが今の「観音寺」だと言われていて、奈良東大寺二月堂のお水取りを初めた、実忠和尚を第一世とし『息長山普賢教法寺』と称されたのが、この寺の起源である。



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京都eラーニングに参加した人達で、「この寺の国宝十一面観音像を見たい人は」と案内があり、自分を含め半分強の人が手をあげた。

京田辺市で唯一の国宝であり、これは是非見ていかなくてはと400円を志納し、本堂におわす観音様の立ち姿を拝見することにした。

自分などには仏像の価値は良く分からないのだが、穏やかなお顔をした立像で、眺めているだけで心が癒されるというか、落ち着いた心となったのである。

境内の駒札によると、

『真言宗智山派に属し、大御堂とも普賢寺とも呼ばれる。寺伝によると、天武天皇の勅願で義淵僧正が親山寺(筒城寺)を建立し、

奈良時代に聖武天皇の勅願により、天平16年(744)良弁僧正が再び造営し、伽藍を増築、親山寺を取り込み、

息長(そくちょう)山普賢教法寺と号し、良弁の高弟実忠和尚を第一世とした。またその時に大御堂本尊として丈六観世音を安置したという。

この観世音が今に伝わる十一面観音立像(国宝)であると伝えられる」。この像は、等身大の木心乾漆造であり、少年のような初々しい顔だち、引き締まった肉付きの良い体躯など、天平彫刻特有の緊張感がある。

奈良聖林寺の十一面観音とよく比較されるが、ともに官営の造仏所で々奈良時代後半頃に製作されたものであろう。』

                         出典:【観音寺の駒札】より



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また、この地は二月堂お水取りに使われる竹が京田辺から送られるのだが、この観音寺から送り出されているのである。