田辺の中央図書館から府道・八幡-木津線に出ると、少し高台に「棚倉孫神社」がある。 |
薪(一休寺)に行くには、もう少し八幡-木津線北に歩くのだが、この道は道幅も狭く車も多く歩くには適さない道で、ガイドさんはこの棚倉孫神社へと道をとった。 |
棚倉孫神社は、京田辺でも古い神社で、その謂れを駒札にみると、 |
『天香古山命(あめのかごやまのみこと;別名、高倉下命(たかくらじのみこと)・手栗彦命(たなくりひこのみこと)をまつる式内社で、大社に位置づけられていた。 |
「日本三代実録」の貞観(じょうがん)元年(859)正月従五位上に叙せられた諸神に「棚倉孫神」と記されている。 |
現在の本殿(京都府登録文化財)は桃山時代の再建で、一間社流造、屋根は桧皮葺である。本殿脇に天正2年(1574)の銘をもつ石灯籠がある。 |
元禄15年(1702)には、淀藩主石川憲之から、石鳥居・石段・石橋の奉納があり、毎年御供料の寄進を得た。 |
広い境内には拝殿、絵馬殿、宮寺(現社務所)など江戸時代の建物がよく残り、絵馬殿には多くの絵馬が掲げられている。』 |
出典:【棚倉孫神社と瑞饋神輿の駒札】より |
また、この棚倉孫神社では一時中断されていた瑞饋神輿(秋に収穫される26種類の野菜や穀物で飾られた神輿)が、昭和50年(1975)から、秋の10月体育の日に田辺区域を巡行するようになった。 |
また棚倉孫神社の神宮寺として建てられた「松寿院」があったことを示す「松寿院跡」の石碑が建つ。駒札によると、 |
『本寺は天満神社を祀る式内棚倉孫神社の神宮寺として建てられ、真言宗に属し智積院の管下にあった。 |
設立された年代は明らかでないが、寛文年間(1661~1673)あるいは享保年間(1716~1736)の記録が残っている。 |
淀城主の鳥居寄進についての古文書に宛名が社僧松寿院と記録されている。 |
当時は天満宮を松寿院が管理していたことがわかる。本院は、天保14年(1843)現在のものに建てかえられた。 |
明治初期に神仏分離政策によって、本院は廃寺となった。また、安政5年(1858)から明治4年(1871)まで寺小屋として子供の教育の場に使用され、 |
明治5年の学制発布により田辺小学校開設準備が始まり、その間、本院が田辺小学校の仮校舎として使用され、 |
明治6年5月、田辺小学校校舎が田辺鳥本102番地に新築完成と同時に本院は棚倉孫神社の社務所となった。』とある。 |
出典:【松寿院跡の駒札】より |
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