巽橋から北東すぐにあるのが、新橋通に架かる「新橋」



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この新橋通が、祇園と呼ばれる界隈の北の端となり、白川に架かる「新橋」から西に、花街の雰囲気を残す『祇園新橋』が残る。

この橋は、江戸時代の正徳3年(1713)に知恩院の山門から西の縄手通までの参道が造られた際に、白川を跨ぐ橋として架けられたものである。



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巽橋の上から東を眺めると、目の前に「新橋」が見える。



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祇園新橋のこの地区は「重要伝統的建造物保存地区」に指定されていて、幕末に井筒屋という茶屋だった所で、今はダイニングバーを営業している「祇園辰巳ネクサス」の建物の前にある駒札によると、

『この界隈は京洛の文化史にかかせない祇園発祥の地である。

約340年前の寛文10年(1670)祇園社領の中の弁財天町等の外六町正徳2年(1712)元吉町、末吉町等の内六町が開かれ今日まで一貫して繁栄してきた。

その間、江戸時代の町民の大衆文化の浮世草子浄瑠璃、歌舞伎音曲の舞台となり絢爛豪華を極め今も伝統芸能として継承発展している。

現在では白川が流れ町家造りの軒を連ねる新橋地区に限られ建築学上からも重要な文化財とされている。

此の建物は元は井筒屋というお茶屋で幕末には長州藩士高杉晋作が芸妓小梨花と遊んだという口碑を伝えています。

「なによくよくよ川端柳、水のながれを見て暮らす」などと三味線に合わして遊んだのでしょうか。

平成元年11月14日京都市長より市制百年を祝し第一回「京都市都市景観賞」を賜る。

(地域の町並みと共存・共栄を最優先に考え文化の香り高い建造物としての評価)

毎年6月第一日曜日正午比叡山明王堂大阿闍梨様が切廻りの途中「辰巳神社」にお立ち寄り「放生会」の行事を行われます。

(放生会とは日々殺生ごとが多い我々の供養)

此の建物は「放生会」の行事が行われる際に御旅所としてお立ち寄りいただいております。』

               出典:【重要伝統的建造物保存地区 祇園新橋の駒札】より



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この橋から白川は流れを東から北に変え(というか本当は、南から西に変えるのだが)新門通へと流れて行く。