横を白川が流れる白川南通には、祇園をこよなく愛した、大正・昭和の歌人である吉井勇の「かにかくに」の歌碑が建っている。



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吉井勇は明治19年(1886)に東京で生まれた歌人で、祇園をこよなく愛し、この歌碑が建っている辺りにあった茶屋「大友」でよく遊んだといわれる。

吉井勇が古希を迎えた、昭和30年(1955)に「かにかくに・・・」の石碑が有志により建てられ、毎年、祇園甲部の芸舞妓によって、この歌碑に白菊を手向けて勇を偲ぶ『かにかくに祭』が行われている。

また一時期、高知県香美郡香北町に住んだことがあり、高知ともまた縁がある人なのである。



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吉井勇は、昭和35年(1960)に亡くなるのだが、祇園の馴染みの芸妓が「なんで菊の花になっておしまいやしたんえ」と嘆いたという。

最近建てられた駒札によると

「かにかくに 祇園はこひし 寐(ぬ)るときも 枕のしたを 水のながるる」

この歌は,祇園をこよなく愛した歌人として知られる吉井勇(1886~1960)が明治43年(1910)に詠んだ一首で,彼の歌集「酒ほがひ」に収められている。

当時は白川の両岸に茶屋が建ち並び,建物の奥の一間は川の上に少々突き出ており,「枕のしたを 水のながるる」はその情景を詠んでいる。

しかし,第二次世界大戦下の昭和20年(1945)3月,空爆の疎開対策に白川北側の家々は強制撤去され,歌碑が建っているこの地にあった茶屋「大友(だいとも)」も犠牲になった。

大友は当時の文人,画人たちと幅広く交流のあった磯田多佳の茶屋である。

昭和30年11月8日,友人たちにより吉井勇の古稀(七十歳)の祝いとして,ここに歌碑が建立された。

発起人には,四世井上八千代、大谷竹次郎、大佛(おさらぎ)次郎、久保田万太郎、里見敦(とん)、志賀直哉、新村 出(いずる)、杉浦治郎右衛門、高橋誠一郎、髙山義三、谷崎潤一郎、堂本印象、中島勝蔵、西山翠嶂(すいしょう)、湯川秀樹、和田三造などそうそうたるメンバーが顔をつらねた。

以来,毎年十一月八日には吉井勇を偲んで,「かにかくに祭」が祇園甲部の行事として行なわれている。

                         出典:【かにかくに碑の駒札】より