「源氏物語ゆかりの地」に説明板が設置されているのは、40ケ所である。今回はその約半分の場所を回ったのだが、

この鳥辺野の説明板は、次に取り上げる東山七条を歩いた時に偶然に見つけたものである。

残りまだ半分あるのだが、それはまたの機会に訪ねることにしよう。



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鳥辺野は都で亡くなった人を葬る葬送の地で、「源氏物語」では急死した夕顔のほか、葵上や紫上らがここに埋葬されたのである。

豊国廟参道・七条通東大路東入る、妙法院南側の女坂北側に説明板がある。

(東山区妙法院前側町)で、JR京都駅から、市バス「206」「208」系統で『東山七条』下車、東に徒歩3分、また京阪七条の駅から東に、徒歩10分である。



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現在の鳥辺野は、東大路通五条上るの西大谷から、清水寺の西南あたりをいうのだが、

平安の昔には、阿弥陀ケ峰を中心とし、北は五条坂から南の今熊野まで、鴨川から東山山麓にという広大な地であったようであるのだが、

もう一方の嵯峨野の化野と比べると、その雰囲気は一変し、鳥辺野が今の姿だったならば近松門左衛門は「鳥辺野心中」は書かなかっただろうと思われる位に、葬送の地だったことを忘れさせてしまったのである。



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「源氏物語ゆかりの地」説明板によると、

現在は西大谷一帯を指し、古くはこの阿弥陀ケ峰(鳥部山)山麓付近を中心に、北は五条坂付近から南は今熊野付近まで、東山山麓から鴨川にかけてかなり広い地域をいったもので、京の代表的な葬送の地である。

「鳥辺野の煙」とあるように東宮実仁親王、藤原道長、頼通親子など多くの皇族・貴族がここで荼毘に付された。

東三条院詮子(一条天皇の母)の場合、暮れの雪の降る寒い日に鳥辺野で荼毘に付され、遺骨は木幡の墓所へ運び埋葬されている。

また中宮定子は遺言により鳥辺野に土葬された。(鳥辺野陵)

「源氏物語」では急死した夕顔のほかに葵上、紫上もここで荼毘に付されている。葵上の葬送の様子を

「鳥辺野に率て奉るほど、いみじげなること多かり。こなたかなたの御送りの人ども、寺々の念仏僧など、そこら広き野に所もなし」(「葵」)

と描写されている。

なお、この前の坂は阿弥陀ケ峰の頂上(標高196.4m)にある豊臣秀吉墓所(豊国廟)の参道にあたる。

               出典:【鳥辺野(鳥部野・鳥戸野とも書く)の説明板】より