嵯峨釈迦堂と呼ばれる「清涼寺」は、光源氏のモデルと云われる、源融の別荘があった所である。



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棲霞観は嵯峨天皇の皇子であった源融が、9世紀後半に建てた山荘跡で現在は「清涼寺」となっている。

源氏物語の「松風」の巻で、光源氏が造った棲霞観は、この辺りだったという。清涼寺海内の阿弥陀堂の前に「ゆかりの地」説明板が建っている。

(右京区嵯峨釈迦堂藤の木町)で、JR京都駅から市バス「28」系統で『嵯峨釈迦堂前』にて下車。



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清涼寺の駒札によると、

『五台山と号する浄土宗の古刹で、「嵯峨釈迦堂」の名で知られている。

この地には、一説では「源氏物語」の主人公の光源氏のモデルであったといわれる源融の山荘、棲霞観(せいかかん)があり、融の没後、棲霞寺としたのが当寺の始まりである。

天慶8年(945)に等身大の釈迦像が安置され、これが通称の由来ともいわれている。

その後、インド、中国、日本の三国伝来となる釈迦如来立像を持って宋(中国)から帰国した奝然(ちょうねん)上人が、

その像を安置するため、愛宕山を中国の五台山に見立てた「大清凉寺」の建立を計画したが、志半ばで没したため、弟子の盛算(じょうさん)が清凉寺を建立して像を安置した。

昭和28年(1953)、背中に蓋が発見され、中に内臓を模した絹製の五臓六腑などが納められていたことから、生身のお釈迦様とも呼ばれている。

本堂は、元禄14年(1701)に徳川五代将軍綱吉、その母桂昌院らの発起により再建されたもので、

本尊の釈迦如来立像(国宝)を安置しており、霊宝館には、阿弥陀三尊像(国宝)、文殊菩薩騎獅像(重要文化財)等、多数の文化財が祀られている。

このほか、境内には、奝然上人、源融、嵯峨天皇、檀林皇后の墓などがある。』

                         出典:【清涼寺(嵯峨釈迦堂)の駒札】より



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「源氏物語ゆかりの地」説明板には、

『嵯峨天皇皇子で皇族賜姓の源融(822~895)が、9世紀後半に嵯峨に営んだ山荘。

融は晩年に写経や造仏に着手したが業なかばで他界したので、子供達が完成させて棲(栖)霞寺とした。

永延元年(987)、奝然は宋より請来した釈迦如来像ほかを棲霞寺境内に安置し、

宋の五台山清涼寺に倣った寺院の建立を目指したが果たせず、遺志を継いだ弟子によって棲霞寺の一郭に釈迦堂として発足したのが清涼寺である。

かつて棲霞寺にあった阿弥陀三尊像(国宝)は現在、清涼寺の霊宝館に安置されている。

「源氏物語」「松風」に、光源氏が造営した「嵯峨の御堂」は大覚寺の南に所在したとあり、棲霞観の場所と一致する。

河原院が六条院のモデルということと共に、源融が光源氏のモデルとされるゆえんである。』

                         出典:【棲霞観跡(清涼寺)の説明板】より