これから源氏物語でも平安京の外にある「ゆかりの地」を訪ねる。 |
まずは「賢木」の巻に出て、また近年の調査で遺構が見つかった、雲林院跡を訪ねることとする。 |
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雲林院は、平安時代の9~10世紀に造られた、淳和天皇の離宮である紫野院だった所で、 |
「賢木」の巻で登場するのだが、光源氏が藤壺との関係に悩んで、この寺に籠るのである。 |
(北区紫野雲林院町(雲林院))で、JR京都駅から市バス「205」「206」系統で『大徳寺前』下車すぐである。 |
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雲林院の駒札によると、 |
『雲林院は、平安時代の紫野の史跡である。この付近一帯は広大な荒野で、狩猟も行われていた。 |
淳和天皇(在位823~833)は、ここに広大な離宮紫野院を造られ、度々行幸された。桜や紅葉の名所として知られ、文人を交えての歌舞の宴も行われた。 |
後に、仁明天皇皇子常康親王(じょうこうしんのう)に伝えられる。貞観11年(869)に僧正遍昭(そうじょうへんじょう)を招き雲林院と呼ばれ、官寺となった。 |
寺としての雲林院は菩提講が名高い。歴史物語「大鏡」は、この菩提講で落ち合った老人の昔物語という趣向で展開する。 |
「源氏物語」「伊勢物語」にも雲林院の名は現れ、「古今集」以下歌枕としても有名で、謡曲「雲林院」はそうした昔をしのんで作られている。 |
鎌倉時代には、雲林院の敷地に大徳寺が建立された。現在の観音堂は宝永4年(1707)に再建され、十一面千手観世音菩薩像、大徳寺開山大燈国師像を安置している。 |
これやきく 雲の林の寺ならん 花を尋ねるこころやすめん |
出典:【雲林院の駒札】より |
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源氏物語の説明板によれば、 |
『淳和天皇の離宮であった紫野院は、常康親王(仁明天皇皇子)の時に雲林院と称し、親王から託された僧正遍昭が九世紀終わりに仏寺に改めた(天台宗)。 |
堂塔の造営や造仏が相つぎ桜の名所ともなった。賀茂祭の還立を見物するために朝早くから雲林院あたりに物見車が立ち並ぶ描写が「枕草子」に見える。 |
雲林院での菩提講は有名で「大鏡」の語り場ともなった。14世紀初めの大徳寺の創始により敷地の多くは施入、子院となり、 |
応仁・文明の乱で焼失し、現在の雲林院(臨済宗)は、江戸期の宝永4年(1707)に寺名を踏襲して大徳寺の塔頭として建てられたものである。 |
「源氏物語」「賢木」に光源氏が、逢ってくれない藤壺の態度が辛くて出家しようと、伯父に当たる桐壺更衣の兄律師のいる雲林院に籠る話がある。 |
2000年に行われた雲林院跡東域の発掘調査で、初めて平安時代の園池や建物跡、井戸跡などが発見された。 |
なお、ここより東方360mの堀川通の西側には紫式部と小野 篁(たかむら)の墓伝承地がある。』 |
出典:【雲林院の説明板】より |
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