「時雨の松」と「五色の椿」がある華光寺から、出水通をはさみ南向いにあるのが、「うかれ猫」の不思議がある、光清寺である。



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光清寺の所以は、その駒札によると

『1669年、伏見宮貞致親王が御生母慈眼院殿心和光清尼公の菩提のため杲山和尚を開山として創立された。

創立当初は天台・真言・華厳・禅の四宗兼学で声実庵と称したが、1706年、堂宇を焼失し伏見宮邦永親王により再建された。

この時宮家ご生母の法名をもって寺号とし心和山光清寺と改められた。なお宮家の縁故により無本寺格とし宮準門跡に列せられ明治初年臨済宗建仁寺派に所属した。

本堂に安置する聖観世音菩薩立像は慈覚大師の作と伝えられ、弁天堂は旧伏見宮邸より遷座された。』とある。

                         出典:【心和山光清寺の駒札】より



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玄関前にあるこの「心月の庭」と、本堂の前庭の「心和の庭」は、昭和の名作庭師と云われた、重森三玲の手になるものである。



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山門を入りすぐ左手にある弁天堂に掲げられている絵馬が、出水の七不思議の一つ「うかれ猫」である。

うかれ猫と呼ばれるようになったのは、

江戸時代の終わり頃、近くの五番町遊郭から聞こえる三味線の音につられ、絵馬の猫が夜な夜な抜け出して、女の姿となり踊り浮かれたという。

これを見た、光清寺の住職が法力で、うかれ猫を絵馬に閉じ込めてしまうのだが、その夜、

一人の武士が住職の夢枕に立ち、「今後は世間を騒がせるようなことはしないので、どうか法力を解いてくれ」と懇願したという。

法力を解いてやると、それ以降は元の絵馬の猫に戻ったということから、この絵馬の猫を「うかれ猫」と呼ぶようになったという。

こんな所以から、三味線の上達の守り神として信仰を集めているのである。

                         参照:【うかれ猫の説明板】より