車折神社の境内末社には、



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地主(じぬし)神社の裏参道を入ってすぐの所にある。その昔、この辺りは嵯峨野と呼ばれ、大宮人が心を澄まして楽しんだ所であった。

愛宕山から北山にかけて「さがしき」地勢であったところから、嵯峨野と呼ばれたという。

弘仁7年(816)に嵯峨天皇が、この地に離宮を設け、詩を賦し、楽を奏でたことにより、大宮人の往来が多くなり、誰しもこの地に愛着を覚えるようになる。

源融が栖霞観を営み、また嵯峨天皇の皇后が、壇林院を創建したり、

平家物語の、祇王・祇女や滝口入道と横笛の話や、さては小督局の悲恋のことなどがあり、藤原定家・為家の父子が、

花鳥風月を楽しんだ地としても知られ、心の安らぎと詩情を求め甦る場所である。

地主神社は、その昔、この付近に柳鶯寺と称する寺があり、嵯峨天皇がここで休んだことに由来し、

その後の変遷により嵯峨天皇を祭神とした、地主神社として再興されたのである。

                         参照:【地主神社の駒札】より



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清めの社は、悪運(金銭、愛情、容姿など)の浄化に関わる霊験あらたかな社である。

立砂は悪霊を祓うといわれ、車折神社の「祈念神石」と深い関係がある。

ここで一心に願い事を祈り、思いを叶えて本殿へと向かうのである。