嵐山の嵐山本線は、「有栖川」から「車折神社」「鹿王院」と続き、「嵐電嵯峨」そして終点の「嵐山」となるのだが、

有栖川の斎宮神社から、嵐電の「車折神社」の駅に向かう途中にあったのが「正定院」という寺社であった。



クリックで大きくなります 正定院は浄土宗の寺院で、天文年間(1532~1555)に、称念上人を開基として建立されている。この地の材木商であった福田家と、この地を領有していた大八木家とが檀家となり、この寺を建てたという。そして、この寺には幕末に、長州藩の為に私財をなげうった福田家の当主、福田理兵衛の墓もある。



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福田理兵衛とは、幕末の世情騒がしいときに、長州の勤皇倒幕を私財を投げ打って支えた人物である。

理兵衛は、嵯峨の豊かな材木商の後継ぎとして生まれ、何不自由なく育っている。

長じて、天龍寺の借用の交渉から長州藩と親密な関係となり、以降、長州藩と深い関係を持つようになる。



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文久3年(1863)8月の七卿落ちでは、それに尽力をし、また天治元年(1864)7月の「御門の変」では、長州側に父子ともども長州に加わっている。

長州側が敗れ、その敗残兵を逃すために尽力をするが、下嵯峨の屋敷が薩摩兵によって焼かれ、自身も長州に逃れ、

長州藩士として召抱えられるが、京の下嵯峨の郷里に戻り得ぬままに、長州の地で亡くなっている。

その子孫が、下嵯峨の旧宅跡に、理兵衛の魂を祀り、この正定院にも墓石を建て理兵衛を偲んでいる。