蛇塚校風から、嵐電の「帷子ノ辻」の駅まで戻る途中で、松竹京都撮影所の西側の道で、地元の、おじさんに「蛇塚には行ったか」と声を掛けられ、暫く話し込んでから、松竹京都撮影所に向かった。 |
松竹は、明治28年(1895)に京都で芝居小屋を買い取ったことに始まり、大正9年(1920)に映画制作を手掛けることになる。 |
松竹は映画の歴史にとって、エポックメイキングとなる作品を造った会社であり、 |
昭和6年(1931)に、日本で初めての本格的なトーキー映画「マダムと女房」を、渡辺篤、田中絹代の主演、五所平之助監督で撮っている。 |
それまでの映画は、スクリーンに映るのは写真のみで音は出なかったものを、トーキーという新しい技術で映画の歴史を一新したのである。 |
ただ、そのトーキーが取り入れられたことにより、松竹鎌田撮影所は映画作りに不向きとなり、大船の撮影所に移ることになるのだが。 |
戦後の昭和26年(1951)には、日本映画で初のカラー映画(当時は、天然色とか総天然色とかいわれた)「カルメン故郷に帰る」を、高峰秀子主演、木下恵介監督で撮っている。 |
そして日本映画の黄金期には数々の文芸作品を世に送り、衰退期には、寅さんの「男はつらいよ」や「釣りばか日誌」などをスクリーンに掛け、 |
平成21年(2009)には「おくりびと」が、アカデミー賞外国映画賞を受賞したことは、記憶に新しいところである。 |
松竹の撮影所は、(現、東京都大田区鎌田)の鎌田撮影所が大正9年(1920)から昭和11年(1936)に大船に移転するまで映画作りが行なわれ、 |
日本初のトーキー映画「マダムと女房」もここで撮られたが、町工場の騒音が多いこの地では、トーキの映画作りには支障きたすとのことで、大船の撮影所に移転することになる。 |
その大船の撮影所は(現、鎌倉市大船)で、昭和11年(1936)から平成12年(2000)に閉鎖されるまで、多くの文芸作品が撮られ、「男はつらいよ」もこの撮影所で作られた。 |
しかし東にあった二つの撮影所は今はなく、この京都撮影所のみが今なお現役として残っているのである。 |
PS:明日から三回忌の法事で田舎に帰ってきますので4~5日の間お休みを頂きます。帰ったら続きを再開しますので、宜しくお願い致します。 |
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