東映京都撮影所から南に、三条通を渡り、二股に別れた左の道を行き、大映通をこえたところに、三吉稲荷がある。



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大映通り商店街は、三条通の一筋南、広隆寺のある太秦から西に、帷子ノ辻までの700mにある商店街である。

この通りの南側に大映京都撮影所があったことから、この名が付けられたといわれ昭和30年代の映画全盛の頃は大層賑わったという。



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三吉稲荷は太秦の地が日本のハリウッドとなり、多くの撮影所が出来たために、それまで、ここに住んでいた狐や狸が行き場を失ってしまい。これを哀れんだ日活太秦撮影所が、昭和5年(1930)に建てたものである。



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クリックで大きくなります 境内には、長門裕之、津川雅彦など牧野省三に所縁のある映画関係者によって建てられた「日本映画の父 牧野省三先生顕彰の碑」がある。両者のほかに、南田洋子や藤田まこと、松方弘樹、高橋英樹、由美かおるなどの名もあり、吉永小百合もここに名を連ねている。

碑文によると

二十世紀のはじめ、京都に新しい産業 映画芸術として日本映画は興った。牧野省三先生は、明治11年(1878)京都に生まれ、実家の劇場経営の経験を捧げて、明治40年(1907)この振興の事業を興した。

爾後、昭和4年(1929)京都に没するまで、常にこの道の先駆者をして企業と芸術の両面より、日本映画創建に尽力された。

日本映画は先生の創意工夫によって、映画の先進国に遅れることなく、表現上の技法を身に就けることが出来た。日本の最初の監督は先生であった。プロデューサー制度の確立や教育映画事業の創始者も亦、先生であった。

俳優、監督その他映画を志す者多数この新天地に集い、日本映画発展の礎を築いた。先生逝いて七十余年、キネマの天地京都から輩出された人材は数知れず、現に映画界の各分野でその中枢として活躍している。

日本映画○○○○○○の気質と情熱によてt開拓され、今世紀百年に亘って日本の映像文化○○の○心として歩み続けてきた。

○○は判読不可能

ミレニアム2000年改めて日本映画の父 牧野省三先生の偉業を讃え顕彰する記念の碑を映画のまち太秦のこの地に建立し、新世紀での日本映画の更なる発展を祈念するものである。

                         出典:【牧野省三先生顕彰の碑】より