東映太秦映画村から再び嵐電に戻ると、太秦の駅の前にあるのが「広隆寺」である。



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広隆寺の門前は三条通で、電車やバス・車がひっきりなしに通り途切れることがない。何枚もの写真のなかで比較的修整のたやすいものを選んで、修正したのがこの写真である。

広隆寺は、太秦寺、太秦太子堂、葛野秦寺または秦公(はたきみ)寺などと呼ばれるが、そのある地名から、太秦広隆寺と呼ばれることが多い。

広隆寺は推古天皇の三十年(622)に秦河勝が、聖徳太子の死をいたんで建立し、新羅・任那から贈られた仏像を安置したのに始まるという。

秦氏は新羅から帰化した氏族で、6世紀末には深草から葛野にかけて広大な勢力をほこり、治水・農耕・養蚕・機織・酒造などの技能集団を形成していたのである。

その名残が、広隆寺を含め、木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)や、梅宮大社、松尾大社(酒造の神)などの寺社があり、秦氏の勢力がいかに大きかったかということが分かるのである。

広隆寺は平安遷都とともにこの地に移ったが、弘仁9年(818)に全焼してしまう。その後、藤原信頼により、永万元年に再興される。

因みに、総門は元禄15年(1702)の再建である。



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広隆寺の本堂に当たる上宮王院太子殿は、入母屋造、檜皮葺きの宮殿風建築で、享保15年(1730)に建立される。

本尊は聖徳太子立像で、この寺を造った秦氏の勢力が衰えた後も、庶民の聖徳太子信仰は続き、今日でも「太秦の御太子さん」として信仰を集めている。



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講堂は、藤原信頼が永万元年(1165)に再興した当時に建てられた、旧金堂で、柱が丹塗りであることから赤堂とも呼ばれる。

正面5間、側面4間、寄棟造、本瓦葺きで、堂内には、国宝・重文級の仏像が安置されていて、重厚な仏像が並んでいるお寺は、京都でも少ないのである。

講堂は永万元年の再建になるものであるのだが、度々の改修によりその外観は当時の姿を止め得ないほどに手が加えられているのである。



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この先が、国宝の第一号に指定され、教科書にも載っていて、誰ひとり知らない人はいない「木造弥勒菩薩半跏像」が展示されている、霊宝殿のあるところである。

拝観料は700円。今回はここまで随分と時間を押してしまい、弥勒菩薩を見るのは次の機会に譲ることにしたのであるのだが、

あとで調べてみると、ここには二体の弥勒菩薩があるそうで、その名も同じ「木造弥勒菩薩半跏像」なのだが、

よく知られているのは、通称「宝冠弥勒」といい、ドイツの哲学者カール・ヤスパースがこの像を「真に完成されきった、人間実存の最高の理念があますところなく表現されつくしている」とまで云った仏像である。

聖徳太子の頃に関わる仏像の殆んどは、奈良に集中しているのだが、京都で飛鳥初期の仏像を見ることが出来るのは、この広隆寺をおいてほかにはない。



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もうひ一つの弥勒菩薩が、「泣き弥勒」といわれるもので、沈うつな表情で右手を頬に当てた様子が泣いているように見えることから、泣き弥勒と呼ばれているもう一体の弥勒あるのだが、先の「宝冠弥勒」には勝てないで涙を流しているようである。

そんななかで、昭和35年(1960)8月に弥勒菩薩の頬にあてた右手を折るという事件が起こったのである。京都大学の学生がどんな気持ちからか、国宝の指を折るということをしてしまったのである。

当時は誰でも触れることができるほどの距離に置かれていたのだが、こんな不祥事は起こり得なかったのだが、魔が差したと言おうか、頬に当てた指を折ってしまったのである。

触れてはいけないものに触れてしまい、それが予期せぬ出来事を引き起こしてしまったということで、一大センセーションをおこしたのだが、本人は起訴猶予となり、弥勒像も完璧なまでの修復で、折損したことすら分からない姿で今も、広隆寺に安置されている。