| 新京極と六角通が交差する所に、ろっくんプラザという小さな公園がある。新京極や寺町辺りを散策した若者たちが、この公園で一休みしている姿は、京の町に似つかわず現代的風景を醸しだしている。そのすぐ前に、誓願寺がある。 |
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| 誓願寺は飛鳥時代、天智天皇の勅願により創建され、平安時代後期に、法然上人が奈良、興福寺の蔵俊僧都より当寺を譲られて浄土宗となり、法然上人の高弟・西山上人善恵房證空の流れを汲む浄土宗西山深草派の総本山となっている。もとは奈良にあったが鎌倉初期に京都に移り、その後、天正19年(1591)に豊臣秀吉の京都改造に際して現在の地に移転となる。 |
| また誓願寺は清少納言、和泉式部、秀吉の側室・松の丸殿が帰依したことから、女人往生の寺としても知られている。 |
| 清少納言は、この寺で尼となり、本堂そばに庵を結び、日々、六字名号の念仏を唱え往生をとげる |
| 和泉式部は、娘の小式部内侍に先立たれ、この世の無常を感じ女人往生を求め、ひたすら念仏三昧の日々を送り、二十五菩薩に迎えられ、弥陀の浄土へと往生する。 |
| 松の丸殿は、その名を京極竜子といい、若狭守護・武田元明に嫁ぐが、本能寺の変後に明智光秀に味方した夫が秀吉軍討たれてしまい、捕らわれの身となり、その出自と美貌のゆえに秀吉の側室となる。伏見城も松の丸に住んだことから、「松の丸さま」と呼ばれた。 |
| 「西の丸殿」(淀殿)に続き側室の中では高い地位にあり、醍醐の花見のでは、秀吉からの盃の順番をめぐり淀殿と松の丸殿が争っやよいうのは有名な話である。 |
| 淀殿と松の丸殿は、淀殿の父・浅井長政と松の丸殿の母が姉弟であったから、二人は従姉妹同士という間柄であった。 |
| その松の丸殿が、誓願寺がこの地に移るのに、和泉式部の女人往生に思いを馳せ、誓願寺再興に尽力したのである。 |
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| 境内には扇塚なるものがあり、その由来は駒札によると |
| 『世阿弥の作と伝えられる謡曲『誓願寺』は、和泉式部と一遍上人が主な役となって誓願寺の縁起と霊験を物語ります。 |
| この謡曲の中で、和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることが、能楽をはじめ舞踊など芸能の世界で尊崇され、江戸時代から誓願寺へ参詣するその筋の人が数多くありました。 |
| 特に舞踊家が多く、文化・文政・天保(1804~44年)のころに京都で活躍した篠塚流の祖・篠塚文三郎(梅扇)は、幸若の系を引く能楽的な色彩と歌舞的な色彩を調和させた優れた芸風を示したといわれ、 |
| 天保年間には山村舞とともに京阪で大いに流行しましたが、彼ら舞踊家の中に誓願寺の和泉式部信仰がありました。その信仰を、昭和・平成の時代まで伝承した舞踊家がありました。 |
| 誓願寺の『扇塚』に、芸道上達を祈願して「扇子」を奉納することには、右のような深い歴史的な意味が秘められているのであります。 |
| また、誓願寺第五十五世策伝日快上人(1554~1642年)が『醍睡笑』八巻を著作して落語の祖と仰がれておられることも、「扇子」との強い絆を保持するゆえんであります。』と記されている。 |
| 出典:【扇塚の由来の駒札】より |
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| 実はこの誓願寺を訪ねたのには、もうひとつの理由があった。 |
| それは、この寺に「迷子のみちしるべ」という石碑があり、そこに2冊のノートが置かれ、右に「教ゆる方」左に「さがす方」と、 |
| 夫々がこのノートに思いを綴り、不明の父親に結婚を知らせるというTVドラマの内容なのだが、その「迷子のみちしるべ」が境内にあり2冊のノートが置かれているものと思っていたのだが…… |
| 現実は山門の左に建っていて、TVドラマのような風景ではなかったのである。迷子になったものが、この「迷子のみちしるべ」で心をかよわして元に戻るという、そんなドラマのようなことがあろうはずもなく、その昔の名残としてここに建っていた。 |
| 石柱は明治10年(1877)に建てられ、正面に「迷子みちしるべ」、右に「教しゆる方」左に「さがす方」と刻まれている。 |
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