妙心寺の塔頭訪問は今回、北門を入った右(西)にある寺院を訪ねてみる。



『天球院(てんきゅういん)』

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臨済宗妙心寺派に属する禅寺である。当院は、岡山藩主池田光政(みつまさ)兄弟が、大伯母天久院(てんきゅういん)のために、寛永8年(1631)から同12年(1635)にかけて建立した寺院で、開山は、江山景巴(こうざんけいは)和尚である。

本堂は、桁行七間、粱行六間の単層入母屋造の桟瓦葺で、唐破風柿葺(こけらぶき)の玄関と共に江戸時代の禅宗方丈建築の典型として貴重なものである。

方丈内部は、狩野山楽(さんらく)・山雪(さんせつ)筆による「竹虎図」、「梅遊禽図」、「籬草花図」、「牡丹・槇図」、「牡丹唐獅子図」等の金碧画を始め、「竹叭々鳥図」、「山水人物図」等の水墨画で飾られ、

杉戸には、二十七面にも及び彩色画が描かれており、創建当時の絢爛豪華さを今に伝えている。また、その他に寺宝として、藤原宣房(のぶふさ)筆の「法華経陀羅尼品」を所蔵している。(非公開寺院である)

                           出典:【天球院の駒札】より



『金牛院(きんぎゅういん)』

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慶安3年(1650)に環陵(かんりょう)を開祖として創建される。当初は北門外の谷口村に在ったのだが、

明治11年(1878)に妙心寺境内にあった万猷院(ばんゆういん)に併合され、現在の地に移る。その後、明治16年(1883)金牛院と改名されている。(非公開寺院)



『壽聖院(じゅしょういん)』

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壽聖院は、関ケ原合戦の前年、慶長4年(1599)に石田三成が父親の正継のために、妙心寺62世伯蒲慧稜(はくほえりょう)禅師を開祖として建立されたものである。

当時は現在の4倍の敷地があったというが、関ケ原合戦の後に三成ゆかりの寺だということで寺域が縮小される。現在の正門は、創建時の医薬門(勝手口)であり、東門は妙心寺の北門となり、西門は天祥院の正門となっている。

儒聖院の第3世住職の済院宗亨(そうこう)大禅師は、石田三成の嫡男で、関ケ原の合戦の時は豊臣家に人質として大坂城に留め置かれていたが、三成の西軍大敗を知ると、

壽聖院の住職、伯蒲恵稜を頼り出家し、家康に助命嘆願し許された後に、壽聖院の第3世となるのである。

境内には石田家の墓所があり、三成の墓もあるのがだ、ここには毛髪や遺品が納められていて、荼毘に付された骸は大徳寺に祀られていると云う。(ここもまた非公開の寺院である)



『春光院(しゅんこういん)』

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春光院は、天正18年(1590)に、豊臣秀吉に仕え関ケ原では東軍につき初代松江藩主となった堀尾吉晴が、小田原の合戦で亡くした長子堀尾金助の菩提を弔うために建立したものである。

堀尾家の松江藩は3代忠晴が寛永10年(1633)に病没すると、嫡子がなかったため断絶となってしまう。その後、忠晴の息女が石川家に嫁いでいたことから、石川憲之が檀越になり、春光院と号し堀尾家の菩提寺として厚く敬った。

春光院は庭園に伊勢神宮の外宮を祀っており、商売繁盛の寺としても有名である。