さらにその東側には、



『桂春院(けいしゅんいん)』

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慶長3年(1558)に美濃の豪族石河壹岐守貞政(いしこいきのかみさだまさ)が桂南和尚(けいなんおしょう)を請じて創建した妙心寺の塔頭の一つで、東海派に属している。

庭園は方丈の南、東及び前庭の三つに分れる。方丈南庭は、北側の崖を躑躅(つつじ)の大刈込みで蔽い(おおい)、その下に東より椿、紅葉等を植え、庭石を七五三風に組んで地勢の変化を巧みに利用し、飛石伝いに方丈東庭に続いている。

前庭は同じく低地を利用した飛石本位のもので茶庭の観をそなえている。茶室は草庵風の三畳の席で、藤村庸軒(ふじむらようけん)の好みと伝えている。(一般公開されている)

                          出典:【桂春院の駒札】より



『蟠桃院(はんとういん)』

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慶長6年(1501)、豊臣秀吉の家臣、前田玄以が、妙心寺79世一宙東黙(いっちゅうとうもく)を開祖として創建され、

一宙の後を継いだ雲居希膺(うんご きよう)に帰依した伊達政宗が壇越(だんおつ:お布施をする人)となった事で伊達家の菩提寺となる。

開山の一宙東黙は、西美濃三人衆の一人である稲葉一鉄の孫で、春日局は従妹となる。この寺院も通常、非公開である。



『海福院(かいふくいん)』

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元和2年(1616)に夬室智文(かいしつちもん)を開山として福島正則の創建になる塔頭である。

寺院には、福島正則が賤ヶ岳の戦いで使った槍(七本槍のひとつ)が保存されている。また、法堂の雲龍図を描く折に、ここに滞在していた狩野探幽が、酔っぱらって落書きした襖もあるという。



『大雄院(だいおういん)』

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慶長8年(1603)、尾張藩の家老を務めた武将、石河光忠が父親の菩提(ぼだい)寺として、慧南玄譲を開祖として創建される。

客殿と書院は享保11年(1726)に再建され、庫裏は江戸末期に改造されたものである。

客殿の襖絵は、江戸末期から明治初期にかけて活躍した、柴田是真(しばたぜしん)の作で、稚松図、山水図などを見ることができる。