花園の駅を北側に出て、新丸太町通を西に200mほど歩くと、法金剛院である。

先日の京都新聞には、寺院の蓮の花が見ごろを向かえたという記事があり、ここを訪ねてからもう2ケ月もたったのだということを実感したのだが、再び花園・御室巡りを始めよう。



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寺院の駒札によると、

『五位山と号する、京都では数少ない律宗寺院である。極楽浄土に見立てた浄土式庭園は有名で、平安末期の姿をとどめている。花の寺としても知られ、とりわけ蓮の名所として名高い。

平安時代の初め、右大臣清原夏野(きよはらのなつの)がこの地で営んだ山荘を、没後、寺に改め、双丘寺と称したのが当寺の起りで、大治5年(1130)鳥羽上皇の中宮待賢門院が再興し、寺名を法金剛院と改めた。

四季折々の美しい景観は、待賢門院を深く慕ったといわれる西行の歌にも詠まれている。その後、弘安2年(1279)に円覚により再興され、律宗に改められた。

本堂は、元和4年(1618)に再建されたもので、堂内には、本尊の阿弥陀如来坐像、四本の手を持つ珍しい十一面観音坐像、僧形文殊坐像などを安置している。

また、寺宝として、蓮華式香炉などの工芸品、書画など多数蔵している。

庭園は、昭和45年(1970)に発掘、復原されたもので、池の北側にある巨石を並べて造られた「青女(せいじょ)の滝」は、五位山と呼ばれる背後の山とともに、国の特別名勝に指定されている。』

                         出典:【法金剛院の駒札】より



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今ではあまりにも風情が違ってしまったが、その昔王朝時代には、皇族や貴族の山荘が多くあったという。

花園という地名も、多くの花が植えられた清原夏野の別荘に由来をしている。法金剛院は、鳥羽天皇の中宮である藤原璋子(待賢門院)が復興をした寺院であり、ここで晩年を過ごしている。

待賢門院は絶世の美女だったようで、白河天皇の養女となって鳥羽天皇に嫁ぐも、白河上皇がその美貌に溺れ、崇徳天皇を生ますことになり、それが白河上皇なきあとの四男の後白河天皇との間に起こる「保元の乱」の引き金になろうとは思いもよらなかったことであろう。

また、その美貌ゆえに、法金剛院には数多の人が訪れたといい、そのなかに西行もいたという。

「なんとなく 芹と聞くこそ あわれなれ 摘みけん人の 心知られて」
(芹摘む人とは、高貴な女性へのかなわぬ恋を意味するという)

「紅葉みて 君が快や しぐるらむ 昔の秋の 色をしたひて」

と西行が詠んだ歌が残っている。