霊山の聖地に入ると、すぐに目に付くのがこの碑である。神道碑と云い、国家に功績のあった人物を顕彰するために、墓所への参道に建てられるものである。

特に、この霊山にある木戸孝允の神道碑は、明治天皇の勅により建立されたので、勅撰碑とも呼ばれる。



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この木戸孝允の勅撰碑に始まり、神道碑は


三条実美(文京区・護国寺)

幕末から明治の公卿で、明治新政府では太政大臣を務めた。内閣が発足すると名誉職となる、最初の内大臣を拝命している。

幕末には尊王派の公家として活動するが、自身は公家風の趣きを持つ温和な人物であり、新政府では夫々の朝廷役を務めたという。


大原重徳(台東区・谷中墓地)

幕末から明治の公家で、孝明天皇に重用され幕府との交渉役を務める。明治維新後に従二位・権中納言となり、明治府の役職を務め、79才で天明をまっとうする。


岩倉具視(品川区・海晏寺)

幕末から明治の公家で、明治新政府の中心的役割を務める。明治16年に咽頭癌の告知を受け(日本人で始めて願の告知を受けた人物)59才で病没する。

昭和44年発行の500円札に肖像が採用されている。



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毛利敬親(山口・上宇野令香園)

長州藩の第14代藩主で、長州の勤皇志士を重用し王政復古の礎を築いた。明治4年3月、山口藩庁内殿で53才で死去。


広沢真臣(世田谷区・若林)

長州藩士で、討幕の密勅に尽力し、倒幕活動を推進する。新政府での要職につき、王政復古の功臣として、木戸や大久保と同じく、永世禄1,800石を賜っている。

明治4年に私邸で妾と一緒にいた所を刺客に襲われ39才で斬殺される。


島津久光(鹿児島・旧福昌寺)

久光は薩摩藩の当主にはなっておらず、28代は異母兄の斉彬、29代は長男の忠義である。

斉彬が没し後見人の斉興までが没すると、薩摩藩の権力を握り倒幕へと傾倒するが、明治維新は思惑とは違い、西郷、大久保に騙されたと憤慨したという。

西南戦争が発生すると中立を貫き、71才で天寿をまっとうする。


大久保利通(港区・青山墓地)

薩摩藩士で、西郷、桂とともに明治維新の三傑といわれるが、その人気は他の二人と比べ数段低い。49才で紀尾井坂にて暗殺される。


これら八基の神道碑が建立されているが、最後の建立は大正14年の建設となっている。