明治維新の幕開けは安政の大獄から始まったといっても過言ではない。この大獄で勤皇や攘夷、反ば幕の思想を持った人々が捕えられ、獄死や斬首されるのだが、その思想が明治維新への道を進む礎となったのである。



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霊山にも、それら草莽の志士たちを祀る碑が建っている。そのひとつが、この若狭「梅田雲濱之碑」である。

幕末の尊王攘夷に思想的影響を与えた人物の多くが、この安政の大獄にて道半ばで亡くなっているのだが、尊王攘夷の行動に与えた影響は計り知れないものがある。名をあげればきりが無いが、


梅田雲濱(うめだ うんぴん)

若狭小浜藩出身の儒学者で、嘉永6年(1853)にペリーが来航すると、通商条約締結反対と外国人を排斥する攘夷運動を志士たちの真先に立ち、幕府批判の先鋒となった。

この行動により安政の大獄で捕らわれ、江戸小伝馬町の牢に送られ拷問を受け、45才で獄死する。


頼三樹三郎(らい みきさぶろう)

儒学者・頼山陽の三男で儒学者で、安政5年(1858)に将軍後継者争いが勃発すると、攘夷推進と徳川慶喜の擁立画策し朝廷に働きかけたため、危険人物とみなされ安政の大獄で捕えられる。

江戸に送られ、福山藩邸に幽閉されるが、小塚原刑場で斬首される。このとき、年35才であった。


小林良典(こばやし よしすけ)

鷹司家の諸大夫で、尊皇の志篤く、国事に奔走するとともに、将軍継嗣問題や水戸藩への密勅降下では主家鷹司政通を攘夷派に転換させ、また一橋派に属して鷹司家を補佐し慶喜擁立を画策する。

このために、安政の大獄にて捕えられ、遠島刑が申し渡されるが、52才で獄中にて病没する。


月照(げっしょう)

清水寺成就院の尊皇攘夷派の僧侶で、西郷隆盛と親しく、島津斉彬が急死したときに殉死しようとする西郷を止めている。

尊皇攘夷に傾倒して京都の公家と関係を持ち、将軍継嗣問題では一橋派に与し、一橋慶喜擁立を画策した。

安政5年(1858)8月から始まった安政の大獄で追われる身となり、西郷と共に薩摩に逃れるが、薩摩藩は月照を受け入れず日向との国境で斬殺をしようと謀りごとをする。

このため、月照は西郷と共に錦江湾に入水する。月照は齢46才、これで亡くなるが、西郷は奇跡的に一命を取り留めた。


吉田松陰(よしだ しょういん)

長州藩士で思想家、教育者、兵学者で、明治維新の精神的指導者としてその果たした役割は大きい。

子供の頃から英邁で早くから西洋の文明に傾倒し、密航を企てるも、1回目は、嘉永6年(1853)ロシア軍艦が予定より早く出向した為に失敗、

2回目は、安政元年(1853)ペリーが日米和親条約締結の為に再航したときに、黒船に乗り込むが拒否されて失敗する。幕府に自首し、故郷の長州の野山獄に幽囚される。

安政2年(1855)に出獄し、安政4年(1857)に松下村塾を開く。この松下村塾にて維新の英傑を産み、長州を一躍倒幕運動の前面へと押し出すのである。

久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎など、その後の歴史に重要な役割を果たした、怱々たる人物が輩出している。

松蔭は、幕府が朝廷の勅許を得ずに日米修好通商条約を締結したことに激怒し、幕府が最大の障害になっていると批判し、倒幕を表明するが、久坂、高杉、桂などが反対し、再び野山獄に幽囚される。

そして、安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られ、安政6年(1859)10月に斬首される。このとき齢30才であった。