池田屋騒動の一月後には「蛤御門の変」が起きている。

元治元年(1864)7月19日に、京都朝廷に長州が直訴しようとし、幕府・薩摩連合軍と武力衝突した事変で、禁門の変とも元治の変とも呼ばれる。



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蛤御門は、京都御苑西側のほぼ真ん中位に位置している。

蛤御門は、本来は新在家御門と言われていた高麗門型の筋鉄門である。

新在家御門を開かせた江戸の大火は二説があり、

ひとつは、宝永5年(1708)に御所を含め、417町、1万3,000軒が焼失した「宝永の大火」

そしてもう一つは、その80年後の天明8年(1788)に、二条城や御所など1,400町、3万7,000軒が焼失した「天明の大火」である。

どちらの説も有力で、いまだにどちらの大火によってこの御門が開いたのか分からないのである。蛤御門の駒札にも、「江戸時代の大火で……」としか書かれてなく、どちらとも特定はしていないのである。



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文久3年(1863)に京を追われた長州が朝廷での勢力を取り戻そうと、来島又兵衛や久坂玄端などが上洛を主張していたが、池田屋で新選組に藩士が斬殺された報が届くと、一機に主戦派に火が付き、京に向うことになる。

京に到着した長州軍は京の三方から御所に向かい、御苑の門(禁裏の門)を挟んで幕府連合軍と戦いを始める。(このことから「禁門の変」と呼ばれる)

また、特にこの蛤御門での戦が激しかったことから「蛤御門の変」とも呼ばれている。

元治元年(1864)7月19日に長州兵は御所西側の各門で戦端を開くのである。

一時、筑前藩の守る中立売門を突破するが、薩摩兵が援軍に駆けつけると形勢は逆転し、来島又兵衛、久坂玄端、寺島忠三郎らは討死をする。

この蛤御門の変に、中岡慎太郎も長州側について戦闘に加わっているのだが、傷を負いかろうじて逃げ延び命を永らえている。

戦は一方的に長州側の負け戦となり国許へ敗走の祭、長州屋敷に火を放ち、これが京の町を焼き尽くしてしまうのである。世に「どんどん焼け」と云われていて、天皇が東京に移った一因だとも云われている。



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クリックで大きくなります 特に戦の激しかった蛤御門には、今に弾痕の跡をはっきりと見ることが出来るのである。