三条小橋の池田屋から東にすぐ、鴨川に架かる三条大橋がある。池田屋の変の際に、ここでも乱闘があったようであり、

土佐藩士の石川潤次郎は池田屋に居る望月亀弥太に会いにいく途中、この橋の上で新選組と斬り合いとなり斬死している。

その時に付いたと思われる刀傷が擬宝珠に残っている。



 クリックで大きくなります
三条大橋の由来は、『この橋が架けられた年代は明らかでなく、室町時代前期には、すでに簡単な橋として鴨川に架けられていたと思われる。

本格的な橋となったのは、天正18年(1590)で、豊臣秀吉の命により奉行増田長盛が大改造を行った。

また、擬宝珠(ぎぼし)は天正と昭和のものが混用されているが、その銘によると、

「洛陽三条の橋は後代に至るも往還の人を化度(けど)とせしむるもの也、磐石の礎は地に入ること五尋(ひろ)、切石柱は六十三本也(以下略…)」

とあり、いかに大工事であったかをうかがわせる。

かつてはここが東海道五十三次の西の起点で、重要な交通の要衝であった。以後たびたび流失したが、幕府が管理する公儀橋としてすぐ修復された。

元禄以来、たびたびの改造を経てきたが、昭和25年(1950)の改造によって今の姿に改められた。現在の橋の長さは74メートル、幅15.5メートルである。

なお、橋の西詰め北側は、高札場とされたところで、現在も天正年間の大改造の際に使用された石の柱が残されている。

                             出展:【三条大橋の駒札】より



 クリックで大きくなります
三条大橋の西側から二つ目の南北擬宝珠(ぎぼし)に、池田屋騒動のときに付いたと云われる刀傷がある。



クリックで大きくなります クリックで大きくなります

西側から二つ目の南側にある擬宝珠である。右から左に袈裟に懸けての刀傷が二筋あるのが見える。

池田屋騒動から150年という年月が流れているにも関わらず、今にその跡をはっきりと残している。

この橋を渡る人達が触れていくのか、その刀傷の跡は黒くくすんでいる。



クリックで大きくなります クリックで大きくなります

北側にある擬宝珠である。こちらの刀傷は南側とは反対に、左から右の打ち下ろしである。

注意して見ないと見過ごしてしまいそうな刀傷なので、三条大橋を渡ることがある時には、この刀傷を眺め、龍馬や慎太郎が活躍した幕末の時代に思いを馳せてみるのも、京都ならではの歩き方かも知れない。



クリックで大きくなります 橋の高欄に付けられた擬宝珠には

『洛陽三條  之橋至後
 代化度往  還人磐石
 之礎入地  五尋切石
 之柱六十  三本蓋於
 日城石柱  橋濫觴乎

 天正十八年庚寅 正月日
 豊臣初之 御代奉
 増田右衛門尉長盛造之』

と刻まれており、豊臣秀吉の命で増田長盛が奉行となって、天正18年(1590)正月に、日本で初めての石柱橋として架けられたとある。

この石柱はその時に使われたものと云われ「天正十七年 津国御影 七月吉日」とあることから、今の神戸市東灘区から切り出された花崗岩であることがわかる。

現在の三條大橋にも、下流の橋脚に当時の石柱が使われている。

                         出展:【旧三条大橋の石柱の駒札】より