河原町三条を東に入ってすぐのところに、新選組を一躍有名にした池田屋騒動があった池田屋の跡がある。

現在の景色からは、とても100数十年前にこんな凄惨な切りむすびがあったとは思えない。唯、その昔を偲ぶかのように、石碑が一つ静かに建っているのみである。



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元治元年(1864)6月5日(祇園祭の宵々山:現在の7月15日)に起った池田屋騒動は、

新選組を語る上ではあまりにも有名な出来事であり、知らない人はいないだろうと思われるので、ここではそれについては詳細しないが、

三条小橋たもとの池田屋に集っていた勤皇派が20余名に対し、近藤率いる新選組は10名、表と裏に6名を残し池田屋に切り込んだのが、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名であった。

20数名と4人では、普通であれば数の上では圧倒的に勤皇派が有利ではあるのだが、

突然の踏み込みと暗闇とで人数の把握が出来ず、また最初に切りかかった者が沖田に一刀のもとに切り倒されたことから、逃げ腰になったものと思われる。



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この池田屋騒動で、勤皇方は

肥後熊本藩士・宮部鼎蔵 (45才:池田屋で自刃)
肥後熊本藩士・松田重助 (45才:池田屋で闘死)
播磨林田藩士・大高又次郎(44才:池田屋で闘死)
伊予松山藩士・福岡祐次郎(闘死)
長州藩士   ・吉田稔麿 (24才:脱出後自刃)
長州藩士   ・杉山松助 (27才:池田屋で斬られ後に死亡)
長州神官   ・広岡浪秀 (24才:脱出後死亡)
土佐藩士   ・北添佶摩 (30才:池田屋で闘死)
土佐藩士   ・望月亀弥太(27才:脱出後自刃)
土佐藩士   ・石川潤次郎(29才・三条大橋で闘死)

が亡くなり、長州の桂小五郎は騒動の数時間前に池田屋を訪ねるが、早かった為、対馬藩邸により難を逃れている。

土佐藩士の北添佶摩と望月亀弥太は、勝海舟の神戸海軍操練所で坂本龍馬とともに学んだ仲であった。

一方、新選組では

裏を固めていた、奥沢栄助、安藤早太郎、新田革佐衛門の三人が、ここから逃げる浪士たちによって、奥沢が斬られ他の二人も深手を負い、一月後に亡くなっている。

いずれにしても、今この場所の雰囲気からはとても昔にそんな殺伐とした事件があった所だったとは、とても思えないところである。



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その後、池田屋は人手に渡り、佐々木旅館として営業していたが、佐々木旅館も廃業し建物は取り壊され、跡地はテナントビルやパチンコ屋など転々としたが、現在は居酒屋となっている。

2007年5月の池田屋跡で、パチンコ屋となっている。



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2009年1月の池田屋跡、パチンコ屋はなくなり空きビルとなっている。



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2010年3月の池田屋跡、現在の姿である。「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」という居酒屋が営業している。