古高俊太郎が四条の住いで新選組に捕えられ、凄まじい拷問で長州が企てる騒乱を白状したのが、この前川邸である。



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壬生は新選組の誕生した地であり、近藤勇ら13名の浪士で組織したのが始まりで、当初は八木邸に屯所を置くが、この旧前川邸も文久3年(1863)から西本願寺に移るまでの2年間新選組の屯所となった所である。

個人の住宅で内部の見学は出来ないが、その当時のままの外観を見るだけでも、新選組がここに居たということを肌で感じとることが出来る。

この前川邸で、古高俊太郎は逆さ吊りの拷問を受けるが、なかなか白状をしない。

そこで土方歳三は、古高の足に五寸釘を打ち、その先に蝋燭を立て火を点けたという。さすがの古高もこれには耐え切れずに、とうとう白状し、元治元年(1864)7月8日の池田屋騒動となる。

古高が拷問にかけられた土蔵が残っている。

古高の最期は六角獄舎が禁門の変で火に包まれた時に、勤皇の志士、平野国臣らと共に斬首されている。元治元年7月20日のことである。



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その他にも前川邸では、芹澤派の最後の人物であった副長助勤の野口健司を隊規違反と難癖をつけて腹を切らせている。

これで芹澤派は一掃されてしまったのである。入口のすぐ横の部屋だとされている。

また池田屋事件の後に、総長、山南敬助が脱走し、近江の大津で沖田総司らに捕まり隊規違反の罪で、この前川邸で切腹させられている。この時の介錯人が沖田総司であったらしい。

切腹の前日に、島原の遊女、明里が山南に会いに訪れ格子ごしに別れを惜しんだというのも、山南の人柄がよく現れている逸話である。

そんな新選組も、
『菊のかおりに葵が枯れる・・・・・変わる時勢に背中を向けて新選組は何処へいく』
と歌われているように、時の流れを止めることは難しかったようである。

近藤勇が下総の流山で捕まり、土方歳三が函館の五稜郭で戦死、その他の人物も夫々に散っていき、

天寿をまっとうしたのが永倉新八であり、新選組の生き残りと覚られないないように生き、同志の菩提を弔いながら明治の世をどのように思い生きたであろう。