天誅組の変から1年の後に、明治維新を3年遅らしたという事変が起こる。

あの新選組を一躍世に知らしめた、三条小橋の「池田屋の変」である。この頃、龍馬は長崎で亀山社中を結成し、京にはいない。

その池田屋の変の端緒を開くのが、勤皇の志士、古高俊太郎の捕縛である。



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四条河原町から三条に向い(北に)一つ目の筋を東に入ると、勤皇の志士、古高俊太郎が商い兼住居としていた「枡屋」が在った場所である。

現在は、和食の老舗である「志る幸」が営業をしており、東に抜けると木屋町通となる。

古高俊太郎という名は、新選組を扱った映画や小説などで、池田屋事変の場面になると必ず登場する人物である。この人物が新選組に捕えられたことが、池田屋事変への端緒になったと云われている。



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古高は、文政12年(1829)に近江国粟太郡物部村(現、滋賀県守山市)に生まれる。

父周蔵が山城国山科毘沙門天門跡の家臣になったのを機に京に移り住み、和歌を烏丸光徳に学ぶ頃より、公家とも親しくなっていく。

また梅田雲浜につき勤皇思想を学び、勤皇の志士とも交流を深めていくのである。

その後、同志の一人である湯浅五郎兵衛の斡旋で、枡喜こと湯浅喜右衛門の養子となって店を継ぎ、枡屋湯浅喜右衛門を名乗ることとなる。

この店を本拠として、密かに武器を集め、同志を援助するなどし、多くの志士が集い勤皇活動の拠点となっていた。



クリックで大きくなります ところが元治元年(1864)梅雨も空け祇園祭も間近に迫った6月5日の早朝に、新撰組に踏み込まれ捕えられる。壬生の屯所前川邸にて過酷な拷問に耐えられず、長州によるクーデター計画を自白してしまう。そしてその夜半、池田屋の事変が起こるのである。

その池田屋事変の端緒となった、枡屋湯浅喜右衛門こと、勤皇の志士古高俊太郎邸があったのがこの場所である。

古高はその後、六角獄舎に送られたが、元治元年7月の禁門の変で洛中は大火となり、六角獄舎にも火が迫るなか、勤皇の志士30数名と共に処刑をされるのである。