文久―元治―慶応と時代の流れは倒幕へと進んでいくのだが、その発端となるのが文久3年(1863)8月17日に起きる「天誅組の変」である。

土佐脱藩浪士18名が名を連ねていた天誅組の変での主謀者の一人である、吉村寅太郎の京での住い跡で、木屋町三条上ル三十五番地路地にある。



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吉村寅太郎は、土佐国高岡郡芳生野村(現、高知県高岡郡津野町)の庄屋の子として生まれる。

長じて城下に出て、武市半平太に剣術を学び、文久2年(1861)に土佐勤皇党が設立されると、これに加わる。

文久2年(1861)に土佐藩を脱藩をするが、有馬新七らが斬られた寺田屋の事件で捕まり、土佐藩に引き渡される。

その後、文久3年(1862)3月にその身を許されると、再び京に戻り、この地に住いし、尊皇攘夷の中心人物として、各藩の志士を集め倒幕を画策する。

孝明天皇の大和行幸に会わせ一機に倒幕の狼煙を挙げようと、文久3年8月17日に、大和国五条の代官所を襲撃するのである。

ところが、翌18日に京では政変が起こり、尊皇攘夷の公家が京を追われ(七卿落ち)、時の流れは公武合体へと進んでいく。

天誅組に未だ時利あらず、幕府の討伐軍により壊滅するのである。吉村寅太郎は、高取藩攻撃で負傷し、

9月24日に鷲家口(奈良県東吉野村)で紀州・彦根藩兵と戦闘となり、天誅組の殆んどがここで戦死し、吉村も27日に津藩兵に発見され射殺される。

享年27才で、辞世の句は、

「吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」