| また、この地には江戸時代の中頃に、貨幣鋳造所である「銭座場」があった所でもある。 |
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| 『元禄11年(1698)京糸割符(いとわりふ)仲間は、銭鋳造の許可を奉行所に願い出る。場所は七条高瀬川際(現、東之町と西之町あたり)の6,400坪と定められ、元禄13年(1700)2月13日から作業小屋二軒を建て、寛永通宝(荻原銭:おぎわらせん)の鋳造を始める。しだいに小屋が増加し合計三十一軒となり、宝永2年(1705)に、さらに480坪を払い受け拡張された。 |
| 宝永4年(1707)幕府は銭鋳造を宝永通宝(大銭)へと変更し、翌年2月から鋳造をおこなうが、幕府は宝永通宝が不評であったため、宝永6年(1709)正月23日に鋳造停止を行なってしまう。これにより、ここでの十年間の銭鋳造も幕を閉じることになる。 |
| 享保16年(1731)11月に天部村年寄・源左衛門と六条村年寄・与三兵衛は、京糸割符仲間が手放した銭座場跡に新しい村を開発することを願い出る。 |
| この村が銭座跡村と呼ばれ、現崇仁学区の南部の始まりとなる。』 |
| 出展:【銭座場跡の駒札】より |
| 銭座の跡地は、貨幣を鋳造した土地に銅が多く含まれた為に、農業には適さず荒れ放題となるが、六条村の皮革産業が発展し、急激な人口増加に対応するために広大な土地が必要な事情と相まって、この跡地を村づくりの地に選ぶのである。 |
| また一説では、五条橋下、七条新地の遊郭が一体化し拡大する過程で、その間にあった六条村が立ち退きを迫られ、銭場跡へと移ったとも云われている。 |
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