| JR藤森の駅から、坂を西に5分ほど下ると藤森神社の石の鳥居がある。この神社は「勝運と馬の神社」として知られている。(京都市伏見区深草鳥居崎町) |

| 藤森神社の南にある正面の石の鳥居は、正徳元年(1711)の銘がある。 |
| この鳥居には、元々、後水尾天皇宸筆の額が掛かっていたのだが、この前が西国からの参勤交代の道となっていて、この前を通る大名は駕籠から降り、拝礼をしてとおるらなければならなかったと云い、 |
| 幕末になって、新選組の近藤勇がその悠長さは時代に適さないと、この鳥居に掛かっていた額を外したといわれ、この鳥居には額は掛かっていないのであるのだが、その額が今何処にあるのかよく分からない。 |

| 本殿への参道に「かへし石(力石)」なるものがあった。 |
| その昔、この石を拝殿より本殿まで転がすという行事があり、また祭日にはこの石を持ち上げて力試しをしたと云う謂れのある石である。 |

| 藤森神社の創建は古く、伝えによると、神功皇后3年(203)三韓征伐から凱旋した神功皇后が、山城国・深草の里の藤森に纛旗(とうき:いくさのときに掲げる旗・軍旗)を立て、兵具を納め、塚を作り、祭祀を行ったのが始まりと云う。 |

| 本殿は、正徳2年(1712)に中御門天皇より賜った、宮中内侍所(賢所)の建物と云われている。 |
| またこの神社は「菖蒲の節句」(子供の日)発祥の神社としても知られ、菖蒲→尚武・勝負の連想や武神が多く祀られていることなどから、馬と武運の神社として信仰を集めた。 |
| 現在は「勝運と馬の神社」として競馬関係者や競馬ファンにとってなじみの深い神社である。また日本書紀の編者で日本最初の学者である舎人親王を祀ることから学問の神としても信仰される神社である。 |

| 本殿の背後西にある「大将軍社」は磐長姫命を祀り、延暦13年(794)桓武天皇の平安遷都の折に、王城鎮護のため四面に大将軍を祀った内の、南面の守護社がこの社である。古来、方除の神として崇敬を集めている。 |
| 現在の建物は、室町時代の永享10年(1438)6代将軍・足利義教の寄進になるものである。 |

| 大将軍社の東には「八幡宮」がある。祭神は応神天皇を祀り、この社も大将軍社と同じ時期に、足利義教により寄進されたものである。 |

| 本殿東には、この神社の創建に起因すると伝えられる、神功皇后が新羅侵攻の折に軍旗を埋納したという「御旗塚」がある。 |
| またこの塚は「いちにきさん」と親しまれ、ここにお参りすると腰痛が治ると云われていて、近藤勇も参拝をし腰痛を治したという。 |

| 5月5日に催される藤森祭は「菖蒲の節句」発祥の祭として知られており、節句に飾る武者人形には藤森の産土神が宿るとされ、その標しとして、ここに神鎧像が建立されている。 |

| 境内には、二つとない美味しい水との意である「不二の水」があり、武運長久・学問向上など、特に、勝運が授かる水として近隣からこの水を汲みにくる人が絶えない。 |

| 藤森祭では、江戸元禄時代に七福神の行列が行なわれていた。この行列の復活を願い、鎮座千八百年を記念し奉納されたものである。 |
| 七福神のご利益は |
| 長寿の神「寿老人」/開運承服の神「大黒天」/商売繁盛の神「恵比須」/安産の神「毘沙門天」/縁結びの神「布袋」/学問の神「弁財天」/除災の神「福禄寿」 |
| 参照:【石鳥居の駒札】/【かへし石(力石)の駒札】/【藤森神社の駒札】より |
| 参照:【大将軍神社の駒札】/【御旗塚の駒札】/【神鎧像の駒札】より |
| 参照:【不二の水の駒札】/【藤森七福神の駒札】より |
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