【新熊野神社】から次は、伏見区にある【藤森神社】【御香宮】に詣でるのだが、バスでとなると、一旦京都駅まで戻り、そこから近鉄竹田駅東口まで乗り、そこで乗換えて【藤森神社】【御香宮】ということとなり、手間と時間を考えると、『東福寺』の駅から電車に乗るのがベストである。

東福寺の駅までは、202・208系統のバスで『東福寺』まで乗るのが早いのだが、今熊野からは二駅、泉涌寺道からは一駅なので、新熊野神社から東福寺の駅まで歩くことにした。



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東福寺の駅までは、東大路通を南に500mほど歩き、JRと京阪電車の線路を跨ぐ陸橋の所で下の道に降りるのだが、少し遠回りをすると、車ばかりの味もそっけもない景色ではなく、違う風景に出会うことが出来るので、東大路通を泉涌寺道で右(西)に折れて路地を歩くことにした。



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クリックで大きくなります 東大路から100mほど西に入ると、左側に一本の古木と石碑が建っている。この景色だけを見ると、ここが何の跡だったのか全く理解することが出来ない。古木に掛かる駒札によると、その昔ここには橋が架かっていたとあり、その名を「夢の浮橋」と云うらしい。今のこの風情からは、川が何処に流れ、何処に橋が架かっていたのかという事が、想像することだに難しい。

ここを流れていた川は、一ノ橋川とも今熊野川とも呼ばれ、泉涌寺の後ろの山を源とし、今熊野の南を巡り、一の橋の下を流れて鴨川に流れ込んでいたようだが、今は暗渠となり流れは全く見えない。

ここに架かっていた橋は、四条天皇や歴代の天皇、后妃などの墓所がある泉涌寺への参道に掛けられた、長さ4間(7.3m)巾2間1尺(3.8m)の橋で、大路橋とか落橋とか呼ばれていた。

落橋とは、昔はこの橋の先が鳥辺山という葬送の地であり、あの世とこの世を繋ぐ橋がなければ、比岸と彼岸が断ち切れると信じられていたことから、壊れても改修をしなかったことから、落橋と呼ばれたという。

夢の浮橋の名は、源氏物語宇治十帖に因み、娑婆世界の無常の「夢の浮橋」が、夢のように、また浪に漂う浮橋のように、はかない様から名付けられたと云う。

その橋の跡には、泉涌寺の僧・道円が詠んだ

「ことはりや 夢の浮橋 心して 還らぬ御幸 志ばし止めむ」

の歌を刻んだ石碑に昔を偲ぶしかないのである。



                             参照:【夢の浮橋跡の駒札】より