【吉祥院天満宮】から【新熊野神社】には、西大路通を『西大路九条』まで戻り、202・208系統で『今熊野』下車(所要19分)徒歩3分で【新熊野神社(いまくまの神社)】である。(京都市東山区今熊野椥ノ森町) |
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新熊野神社には『今熊野』か一つ手前の『泉涌寺道』のどちらのバス停で降りても、ほぼ同じ距離なのだが、今回は『今熊野』でバスを降りた。 |
このバス停は下をJR東海道線の電車が走り、上のほうには京都タワーが見えている。ここから東山大路を北に行くと直ぐに、三十三間堂や智積院、さらに東山五条を通り、祇園へと続いていく。 |
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新熊野神社は、平安後期の永暦元年(1160)に、後白河上皇が紀州熊野神社の神を、この地にあった仙洞御所法住寺殿の内に勧請したことに始まると云う。 |
また上皇の命を受けた平清盛は、熊野の砂や木々を用い社域や社殿を築き、那智の浜の青白の小石を敷いて、霊地熊野を再現したとされる。 |
当時は熊野信仰が盛んであり、天皇や上皇、公家などが紀州の熊野神社に詣でることが一大ブームであった。 |
この神社を「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州熊野神社に対し、京に創った新しい今の熊野神社という所から「いまくまの」と呼ばれるようになったのだと云う。 |
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鳥居の横、東大路通に面した所に大きな樟がある。これは、後白河上皇が新熊野神社を創建された折、国家鎮護と万民幸福を祈願し、紀州熊野より移植し、自ら植えたものだと云われている。 |
また熊野の神々がご降臨になる「影向の大樟」といわれ「健康長寿・病魔退散/特にお腹守護」の神として広く信仰を集めている。 |
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新熊野神社は皇室の尊崇も厚く、広壮・荘厳を極めたが、応仁の乱で荒廃し、現本殿は寛文13年(1673)に聖護院の通寛親王(後水尾天皇の皇子)により再建されたものである。 |
本殿は、桁行三間(建物の長い方:ここでは奥行きが5.4m)、梁行一間(妻側で、ここでは正面が1.8m)の入母屋造妻入で、正面に向拝一間を付け、内部は正面通一間の外陣とその奥二間の外陣とに分かれている。 |
また本殿は、構造形式・平面構成共に熊野本宮証誠殿と同じで、全国的にも他に類をみず、さらに熊野の証誠殿よりも古いことからも、熊野造りの古制をよく伝えていると云う。 |
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この地は、能楽隆昌、機縁の地とされ、能楽の大成者・世阿弥が若い頃の文中3年(1374)に、ここで父と共に、大和の猿楽結崎座を率い勧進興業を行い、見物していた室町幕府3代将軍・足利義満がいたく感嘆し、父を観阿弥、子を世阿弥と名乗らせたと云う。 |
これを機に世阿弥は猿楽の芸を高め、今日の能楽の隆昌をもたらしたという、能楽ゆかりの地である。 |
参照:【新熊野神社の駒札】より |
参照:【後白河上皇お手植の「大樟」さんの駒札】より |
参照:【新熊野神社・本殿、大樟の駒札】より |
参照:【能楽大成。機縁の地の駒札】より |
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