| 疎水を離れて霊鑑寺へと向かうのだが、その霊鑑寺の横の路に建つのが「比奥俊寛山荘地」という石碑である。 |
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| 寺ノ前橋を渡り東山の麓に分け入ると、すぐに霊鑑寺が見えてくるのだが、その南側の道路脇に建つ石碑が、俊寛の山荘跡を知らせる石碑である。写真では上手く写っていないのだが、石碑から真直ぐに進むと俊寛の山荘があった所へ行き、右の道を進むと、何の関係もないのだが、ノートルダム女学院がある。 |
| 俊寛のことは平家物語に詳しいので、それを追ってみようと思う。 |
| 巻一の10「鹿の谷の事」で |
| 『東山鹿の谷といふ所は、後は三井寺に続いて……俊寛僧都の山荘あり』 |
| とこの地にあった俊寛の山荘が登場する。 |
| ここで平家を亡ぼすべき謀を廻らすのだが、内部告発により一網打尽に捕えられ、夫々に処罰を受け、そのなかで、丹波の少将成経・平判官康頼そして法勝寺の執行俊寛僧都の三人が鳥も通わぬ、薩摩潟鬼界が島に流されるのである。 |
| 鬼界が島に流された後、康頼は都恋しさのあまり千本の卒塔婆を、沖つ白浪の寄せては返す度毎に、海に浮かべたのである。その一本が、安芸の宮島に流れつくのである。 |
| それをみて、相国入道も人の子、赦文を書いて、鬼界が島に船をやり、平判官康頼入道と丹波の少将のみの赦免を許す。 |
| それを聞いた俊寛は、天を仰ぎ、地に伏して足摺して泣き悲しめど甲斐もなき。船はいよいよ遠ざかる。せめて九国の地にまでと、喚けど声も届かない。 |
| 其の後、有王なる童いて、僧都の召しうどなるが、二人のみ帰りて我が主は帰らずとて、鬼界が島へと渡りける。 |
| そこにて俊寛悟りを開き、この地で生涯終らんと、絶食の後、命を終える。齢37才ともいうが、有王、都に持ち帰り、主の菩提を弔い過ごしたという。 |
| そんなエピソードのある俊寛の山荘がこの道の奥にあるのだが、今回はこの石碑から道を左にとる。 |
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