清涼寺の境内、本堂の西隣にあるのが「嵯峨薬師寺」である。



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『日月門』

薬師寺というと奈良西の京にある「薬師寺」が有名だが、京の都にも薬師寺と名が付いた寺院があり、京都らしくこじんまりしたお寺で、奈良の薬師寺と区別し「嵯峨薬師寺」と呼ばれている。



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『三地蔵尊』

境内には三地蔵尊(「生六道地蔵菩薩の分身」「夕霧地蔵菩薩像」「瑠璃光地蔵菩薩像」)が安置されている。

薬師寺の由来は、平安時代初期の弘仁9年(819)に弘法大師が疫病退散のために、薬師如来像を彫り開眼供養をすると、疫病が鎮まったという。

この薬師如来を本尊として、嵯峨天皇勅願の寺として開山したのが、嵯峨薬師寺である。



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『本堂』

薬師寺は度々火災に会うが、鎌倉時代に北条時頼により再興し、その後再び焼失するが、江戸初期に大覚寺の宮尊性親王により再建されたのが、現在の本堂である。

本堂の前には
「生の六道」小野篁公遺跡
という石碑が建っている。

これは、小野篁(おの の たかむら)が毎夜々々冥土へ出かけ、閻魔大王を助け朝になるとこの世に戻るというのに因む。



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『六道珍皇寺』

東山六波羅にある六道珍皇寺である。小野篁がこの本堂裏にある空井戸から冥府に通ったという。

小野篁は、平安時代前期(延暦21年(802)~仁寿2年(853))の官人で学者であった、世俗には随分と変った人だったようである。

篁は六道珍皇寺の冥界に続く井戸から夜毎、高野槙の枝を掴んで井戸を下り、冥府で閻魔大王に仕えていたと云う。 そして朝になると嵯峨六道町の「福正寺」にある空井戸からこの世へ戻ってくるということを繰り返していた。



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『冥府への井戸』

ある夜、この井戸から冥府に赴いた篁は、猛火の中で苦しむ亡者の身代わりとなり、焼かれている地蔵菩薩の姿を見て、その尊さに心を打たれ、その姿を刻し冥土の出口の井戸がある福正寺にお祀りをする。

冥土からこの世に戻ることを「生まれる」と考え、祀られた福生寺が冥府「六道」からの出口であることから、この出口を「生六道(しょうろくどう)」といい、篁の刻した地蔵菩薩像を「生六道地蔵菩薩」と云われるようになった。

福正寺は明治になって廃寺となり、明治13年(1880)に薬師寺に合併され、その時に、篁の「生六道地蔵菩薩」も薬師寺に移り、ここに祀られることとなる。福正寺にあったと云う「生の六道」の空井戸は、寺ともども現在は残っていないのである。



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『小野篁公の墓』

堀川通北大路下ルの堀川通に面した建物の一角に小野篁の墓所がある。そして篁の墓の横には、紫式部の墓が建っている。

伝えによると、源氏物語を読む者や、物語を書いた式部自身がが地獄に落ちるとの噂が世に広がり、紫式部の御霊を救う為に、その墓所を地獄を司るといわれた小野篁の墓の西に祀ったと古文にあり、

そのことからこの地が紫式部の墓所だとされ、そんな訳で小野篁の墓の西には紫式部の墓があるのである。