化野念仏寺の境内には、8,000体もの石仏や石塔があって、それはこの辺りに葬られた人々の墓石であると云う。

時の流れのなかで、無縁仏と化し、あだし野の地に埋没・散乱していたものを、明治36年(1903)頃に、釈尊宝塔説法の様を形どって集められたものである。



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この石仏を集めた姿は「西院(賽)の河原」と呼ばれ、嬰児(みどりご)が一つ、二つと石を積むさまを想い起こさせる。

賽の河原で嬰児が石を積む様は、空也上人の地蔵和讃に、

『帰命頂礼地蔵尊、無仏世界の能化なり

これはこの世のことならず、死出の山路の裾野なる、さいの河原の物語、聞くにつけても哀れなり

二つや三つや四つ五つ、十にも足らぬおさなごが、父恋し母恋し、恋し恋しと泣く声は、この世の声とは事変わり、悲しさ骨身を通すなり

かのみどりごの所作として、河原の石をとり集め、これにて回向の塔を組む

一重積んでは父のため、二重積んでは母のため、三重積んではふるさとの、兄弟我身と回向して、昼は独りで遊べども、日も入り相いのその頃は、地獄の鬼が現れて

やれ汝らは何をする、娑婆に残りし父母は、追善供養の勤めなく、親の嘆きは汝らの、苦患を受くる種となる

我を恨むる事なかれと、くろがねの棒をのべ、積みたる塔を押し崩す、その時能化の地蔵尊、ゆるぎ出てさせたまいつつ

汝ら命短かくて、冥土の旅に来るなり、娑婆と冥土はほど遠し、我を冥土の父母と、思うて明け暮れ頼めよと、幼き者を御衣のもすその内にかき入れて、哀れみたまうぞ有難き

いまだ歩まぬみどりごを、錫杖の柄に取り付かせ、忍辱慈悲の御肌へに、いだきかかえなでさすり、哀れみたまうぞ有難き

南無延命地蔵大菩薩

と詠われ、

一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のためと、賽の河原で小石を積んでは積んでは、鬼によって崩される。

のだが、最後には地蔵菩薩によって救われるのである。その賽の河原を思い起こさせる風景である。



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クリックで大きくなります この西院の河原は外からは写真を撮ってもいいのだが、河原の中では写真撮影は禁止となっている。

これは外から撮った写真には別段変ったことはないのだが、石仏のある河原の中で写真を撮ると、あまりにも心霊写真が取れるということで、西院の河原での写真撮影は禁止となっている。

しかし最近はデジタルカメラの時代となり、デジカメで撮った写真では心霊写真も撮れなくなってしまい、その心配もなくなったようである。

やはり「心霊」は銀塩カメラのフィルムが好みなのであろうか。