嵯峨鳥居本に入り、緩やかな上り坂を歩くと、まもなく低い石垣と石段が見えてくる。

「あだしの念仏寺」である。



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兼好法師が徒然草のなかで、

『あだし野の露消ゆるときなく、鳥部山の烟立ち去らでのみ、住果つる習ならば、如何に物の哀れもなからん。世は定めなきこそ、いみじけれ』

と記したように、ここは昔から風葬の地として知られていたのである。

化野念仏寺へと続く参道である。



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あだし野は古来より、人の命のはかなさを詠んだ歌に引用され、

後白河院の皇女・式子内親王(平安時代末期)が詠んだ、
『暮るる間も、待つべき世かはあだし野の、末葉の露に嵐たつなり』

また、西行法師(鎌倉時代初期)が
『誰とても、留るべきかはあだし野の、草の葉毎にすがる白露』
と詠み、

二条為道(鎌倉時代末期)も
『あだし野や、風まつ露をよそにみて、消えんものとも身をば思はず』
と詠んでいる。



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あだし野の名は、古語の「はかない・悲しみ」の意味を持つ『あだし』から用いられて、化野と記す。

この化の字は、生が死と化し再び生まれ化(かわ)ることや、極楽浄土に往生する願いを意としている。

化野は、小倉山東麓一帯の地名で、古来より葬送の地で、初めは死骸をすてて風葬だったが、のち土葬となり、人々が石仏や石塔を重んで、永の別れを惜しんだのである。



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念仏寺は、千年以上も昔にさかのぼった、弘仁2年(811)弘法大師(空海)が五智山如来寺を建立し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したのに始まると伝えられる。

のち、法然上人が常行念仏の道場にしてから、寺名を念仏寺と改めたと云う。本尊の阿弥陀如来像は鎌倉時代の湛慶作と云われている。本堂は江戸時代の正徳2年(1712)に寂道和尚により再建されたものである。