『窓近き 竹の林は 朝夕に  心をみがく種とこそなれ』 津崎村岡

直指庵には、勤皇の女傑といわれる村岡局の墓がある。墓碑には自筆で「津崎氏村岡矩子之墓」と刻まれている。

嵐山・嵯峨野には村岡局に関わるものが三つあり、これを紹介する。



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一つ目は、嵐山公園にある「津崎村岡局の銅像」

これは過日、嵐山を訪ねた折の 村岡局の銅像 の記事を参照ください。



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二つ目は、大覚寺大沢池の畔にある「津崎村岡碑」

駒札によると

『津崎村岡(矩子)は、幕末から維新にかけての女流勤皇家で、大覚寺門跡諸大夫・津崎筑前守の妹として、天明6年(1786)京都に生まれる。

幼少より近衛忠煕(ただひろ)に仕え、村岡局となる。時勢の変遷に明るく、成就院僧・月照や西郷隆盛らと交友を持ち、維新を助ける。』

           出展:【津崎村岡碑(明治二十五年建立)の駒札】より



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三つ目は、直指庵の中にある「津崎氏村岡矩子之墓」

駒札を要約すると、

『天明6年(1786)嵯峨大覚寺宮の家来・津崎左京の娘として生まれる。十三才で近衛家に仕え、忠煕の信頼厚く近衛家では村岡と呼ばれ、後に老女の地位に昇る。

安政6年(1859)に、尊王譲位の志士の申し出を近衛忠煕に取次ぎ便宜を図ったと、江戸に護送・投獄をされる。

かって村岡局は、島津斉彬の幼女・篤姫が13代将軍・徳川家定の室として江戸に向かった時に、71才の局は篤姫の養母として江戸城に赴いている。

その時に貰った三つ葉葵の紋を散らした打掛を着て評定所の白砂に坐り、安政の大獄の過酷に慣れた奉行もその扱いに困ったという。74才のときである。

禁固30日永謹慎を言い渡され、嵯峨に帰り直指庵に入り、近衛家代々の冥福を祈り、風月を友として、里の人々の教養に勤めた。明治6年(1873)88才で寂した。

その村岡局がここに眠っている。

                         出展:【勤皇の女傑・村岡局の駒札】より