トロッコ嵐山の駅から小倉池の横を北に270mほど歩くと、小倉山の中腹に建つ「常寂光寺」に出会うことになる。 |
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常寂光寺は小倉山の中腹にあり、後亀山天皇の小倉殿跡に、慶長元年(1596)本圀寺究竟院日禎(にっしん)が隠棲した所と伝えられる。 |
多宝塔は三間二層の桧皮葺で、本堂の背後、眺望のよい所にあり、元和6年(1620)の建立と云われる。 |
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「小倉山 峰のもみじ葉………」と小倉百人一首で名高い楓のもみじ葉が残り、また境内には藤原定家の歌仙祠がある。 |
なお、寺宝に小督局の遺品と伝えられる車琴がある。 |
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常寂光寺の建つ小倉山は、標高292mの小高い山で、隠椋山とも書かれ、その昔は大櫃川両岸の総称であった。古来、桜と紅葉の名所として知られ、歌枕として歌人に愛されてきた。 |
小倉山を詠んだ歌には、 |
小倉百人一首の二十六番 |
小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば |
今ひとたびの みゆき待たなむ |
貞信公 |
貞信公とは、藤原忠平のことで、元慶4年(880)から 天暦3年(949)を生きた、平安時代の公卿である。聡明で慈愛深く、従一位関白の座まで栄達し、藤原氏が栄える基盤を確立した。貞信公は、死後の送り名である。 |
古今和歌集の三百十二番 |
夕月夜 小倉の山に 鳴く鹿の |
声の内にや 秋は暮るらむ |
紀貫之が長月の晦日(つごもり)の日、大櫃にてよめる歌 |
紀貫之は、貞観14年(872)から天慶8年(945)を生きた、平安時代の歌人である。始めて仮名によって書き上げられた「土佐日記」は有名である。 |
万葉集巻八、千五百十一番 |
夕されば、小倉の山に、鳴く鹿は |
今夜は鳴かず、寐(い)ねにけらしも |
舒明天皇 |
と、万葉集でも小倉山が出てくるのだが、しかしこの歌は奈良で詠まれたものであり、ここ嵯峨野の小倉山のことではなく、奈良県桜井市今井谷付近の山だろうと云われている。 |
舒明天皇は、推古元年(593)から舒明13年(641)の飛鳥時代を生きた第34代の天皇である。 |
常寂光寺を辞して、次は嵐山の嵯峨野らしい景色に出会うことになる。 |
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