嵐山公園を「雨中嵐山」の碑から左に登ると、戦国期の京の豪商である、角倉了以の銅像が建っている。



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角倉了以は、天文23年(1554)から慶長19年(1614)を生きた京都の商人であるのだが、商人というよりも、水運の土木事業を手掛けた人物として有名である。

安南国(現、ベトナム)との貿易である御朱印船の第一船を慶長9年(1604)に出すなどし、事業の土倉
(土倉とは、現在の質屋のように担保をとり、金を貸し出す業のこと)

も順調で商人としても成功していたが、家督を息子の素庵に譲って後の河川の開削事業で、後世にその名を残したのである。

主だったものに、

慶長11年(1606)保津川・大櫃川の開削完成

慶長12年(1607)富士川疎通完成

慶長13年(1608)天龍川開削は未完成

慶長16年(1611)高瀬川の開削完成

了以翁の名を有名にした高瀬川の開削が終って3年後、61才にて亡くなっている。

翁が生まれた嵯峨の地に銅像が建っていたのだが、戦争中に没収されていたものを、京都の町衆により昭和63年(1988)に復元された。