日中不再戦の碑を後にして、渡月橋を南から北へと渡り、大櫃川(保津川)に沿って旅館や飲食店が並ぶ三条通を西へ。 |
この道は、渡月橋から300mほど歩くと行止まりとなり先には進めない。三条通の西の端なのである。 |
その道が亀山公園への登り口に出会ったところから、少し登った右奥に、中国の政治家・周恩来の詩碑があり「雨中嵐山」と題する詩が刻まれている。 |
昭和54年(1979)に除幕式が行なわれた。 |
若き日、周恩来が嵐山を訪ね作った詩「雨中嵐山」 |
『雨中二次遊嵐山,両岸蒼松,挟着幾株櫻。 |
到尽処突見一山高,流出泉水緑如許,繞石照人。 |
瀟瀟雨,霧濛濃;一線陽光穿雲出,愈見嬌妍。 |
人間的万象真理,愈求愈模糊; |
――模糊中偶然見着一点光明,真愈覚嬌妍。 |
(註:文中の嬌の字は原文では女へんに交わるとなっている) |
これを意訳してみるに |
雨の中、二度嵐山に遊ぶ、(大櫃川の)両岸の蒼い松の間に、幾ばくかの桜の花が交じる。 |
道の尽きる処に至り、一つの高い山を見る、流れ出ずる水は緑のごとく、石を繞(めぐって)人影を写している。 |
瀟瀟雨(しょうしょうう:深い深い雨、雨脚の強い雨)と深い霧がたちこめる;一筋の陽の光が雲間より射し、愈(ますます)なまめかしく美しく見える。 |
世の中の総ての真理は、求めれば求めるほどに愈(ますます)模糊(あいまい)となる。 |
――しかし、その曖昧さの中に偶然一点の光明を見出した時は、真に愈(ますます)なまめかしく美しく思われる。 |
周恩来は明治31年(1898)から昭和51年(1976)を生きた中国の政治家であり、中華人民共和国の建国から亡くなるまで正治の要職を務め、 |
毛沢東の補佐役として信任を得、文化大革命にも失職をしなかった。昭和47年(1972)に日中国交を回復するたもの、日中共同声明に時の日本首相・田中角栄と共に、署名調印したことでも知られる。 |
その周恩来が大正6年(1917)9月から大正8年(1919)4月までの青春時代を日本で過ごすも、希望した東京第一高等学校と東京高等師範学校に不合格となっている。 |
日本留学の最後の半年は京都に住み、京都大学の聴講生となっていた。この雨中嵐山の詩は、帰国する寸前に作られたもので、その時の心情をいかばかりか綴られているのであろうか。 |
その石碑の周りでは中国語での会話が聞こえてくる。ここは日本に来た中国人の観光スポットであり、聞こえてくるのは中国語のみである。 |
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